文部省による発掘調査の成果を受けて、1931(昭和6)年3月、払田柵は国指定史跡となった。
そして、そのころの高梨村当局や、地元の人々の遺跡保存にかける熱意の一端は、すでに「事務所設立前の研究」で触れた。
しかし、それらはあまり長続きはせず、社会情勢の変化の中で、しだいに忘れられていったらしい。
ようやく、1970(昭和45)年12月に至り、仙北町では、真山丘陵の南麓に史跡払田柵跡出土品収蔵庫を建設し、出土品の散逸を防ぐ措置をとった。
このころの遺跡の状況と、押し寄せる開発の波に深い憂慮の念を表したのは新野直吉氏で、氏は『古代文化』誌上に、「払田柵阯の現況と柵に関わる若干の考察」と題する論文を寄せている。
この中では、払田柵を踏査して、荒廃する遺跡の現状を目のあたりにし、「この際新たな精査を行い、学問的には未知と不備とを追補しながら、新規点を増して、マンネリズムに陥っている管理体制をひきしめるような刺戟を与え、一層有効な保護をも加え得るような新施策をなすべきであることを主張するものである。」と述べ、調査と保存対策の必要性を力説した。