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歴史を知る

前山地域の歴史

  

「前山」の名前が初めて記録に残されたのは文禄3年(1594年)。当時、この地方を治めていた浅利氏と秋田氏の抗争に巻き込まれ、北秋田市の農村が放火・なで切りの被害を受けたと言われています。この件を大阪に報告した文書には「前山村 以前は15軒の家があったが、今はない」という一文があり、比較的大きい集落が形成されていたことがうかがえます。
また、「浅利分限帳」には浅利氏の家臣・大番頭、前山善助が派遣され100石を治めていたと記されており、前山地域の東側にある「鶴が森(萩の岱)」に居城を構えていたとされています。
その後、前山の集落は再興しましたが、どういった経緯をたどったのか、詳しいことはわかっていません。今の前山地域の中心部より東側、伊勢堂長根のあたりが集落の中心地であったようです。
宝永4年(1707年)に米代川が氾濫し、大きく土地が削り取られてしまったため、支郷であった「山道村(現在の前山地域の場所)」に移転。さらに元禄の飢饉により離散した前山川上流の二本杉村から数軒の家が移転し、現在の形の基礎が作られました。
その後、順調に戸数が増え、江戸時代末期の文政6年(1823年)には65戸を数えるほどになりました。
幕末から明治期にかけて、前山地域では石川道賢(1807年~1897年)という漢方の名医が活躍していました。寺子屋で読み書きを教え、絵や俳句をたしなみ、自分の作品を地域の人々に贈りました。どの家でも大晦日になると道賢の描いた掛軸をかけ、餅やお酒を供えて子供たちに拝ませたということです。
道賢の息子、賢造も塾の先生でしたが、明治15年(1882年)、前山地域に七座(ななくら)小学校を創立し、鷹巣から高学年の生徒が回ってきて読み書きを教える「巡回授業所」が行われるようになると、塾を廃業し、小さな商店で酒や菓子を売って生計を立てました。
明治22年(1889年)12月には、前山地域、今泉地域を学区として、前山地域の郷倉を校舎に、七座簡易小学校が設立されました。
その後、今泉地域に七座(ななくら)小学校が開校し、昭和46年(1971年)に坊沢地域の西小学校に統合し、現在に至っています。
昭和4年(1929年)には前山地域に信号所が、昭和24年(1949年)頃に駅ができ、列車が停まるようになりました。現在は無人駅ですが、地域の人たちによって清掃され、大切にされています。
 
2015年3月31日掲載
 
■参考文献
『七座郷土史』 七座郷土史編纂委員会
『鷹巣町史』 第1巻、第3巻
『広報たかのす』 第420号 昭和54年11月15日
『秋北新聞』 1997年(平成9年)10月16日
『秋田県の地名 二本歴史地名大系』 第5巻

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