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歴史を知る

芭蕉句碑と俳諧の歴史

画像:芭蕉句碑と俳諧の歴史


  江戸時代の阿仁町は、文化が盛んに流入する地理的環境に恵まれていました。「五城目街道」を経て秋田文化が、「高陣街道」からは比内文化が入ってきます。阿仁の銅を運搬する「阿仁川」経由で能代文化、そして「大覚野街道」を通して仙北文化が、当時、鉱山で栄えた阿仁町に続々と入ってきました。

 上小様地域の三枚集会所から合滝集落に向かって小様林道を進むと、「花月連中」という、俳句の同人グループが俳人・松尾芭蕉の徳を慕って建立した句碑が、林の中に残されています。高さ1.2m、幅1m、自然石に「めずらしや 山を出羽の 初茄子」という句が刻まれ、裏側には「万延二年 辛酉 花月連中建立」と記されています。元禄2年(1689)に芭蕉は奥の細道で秋田県の象潟を訪れており、阿仁の人々は芭蕉の影響を大きく受けたようです。芭蕉句碑のすぐそばには「二十三夜塔」という石碑もあり、この場所で当時の人々は夜に俳句を呼んで賑わったと言われます。

 当時、俳句が流行っていたことは、紀行家・菅江真澄の著作からも伺えます。三枚鉱山の奥にある「一ノ又鉱山」が盛んなころ、この地を訪れた菅江真澄は著作『雪の秋田寝』に、一ノ又鉱山で宿泊した戸塚鶴歩の家で、「濁らぬはこころばかりのそば湯かな」と読む主人の鶴歩に対し、「すびつに更てあたたまる屋戸」と読み、連俳を楽しんでいます。鶴歩の妻も連俳を楽しんでおり、『雪の秋田寝』から、この地に俳句の文化が発達していたことが伺えます。

 この他、『万家人名録』『俳諧秋田人名録』『古今墨蹟集』といった江戸期の文献にも阿仁の俳人の名前が多く記述されています。阿仁の俳諧熱が高まったのは、阿仁鉱山が佐竹藩の直山(じきやま)になる際、藩主、家老、奉行といった当時の文化人が手ほどきをしたことも理由の一つに考えられます。江戸期の俳句隆盛に貢献した人々は、阿仁銅山視察の様子を記した『阿仁紀行』の著者で勘定奉行の重職についた「平元幾秋」、秋田俳壇に全盛期をもたらした俳人「吉川五明」、阿仁銅山に多くの門人がいた町奉行「秋山御風(ぎょふう)」などがあげられます。 

 その後も阿仁では、明治大正を経て戦前戦後にかけても、短歌や俳句の創作活動が活発になりました。三枚に残る芭蕉句碑は、阿仁で俳諧が発達した歴史を裏付ける貴重な史跡でもあります。

2012年5月掲載

■参考文献
『阿仁町史』
『森吉山麓 菅江真澄の旅』

 

 

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