本文へスキップ

歴史を知る

阿仁鉱山の歴史

画像:阿仁鉱山の歴史


「小沢」「真木沢」「萱草」「三枚」「一ノ又」「二ノ又」、阿仁六ヶ山と呼ばれるこれら6つの山に、「大沢」「天狗平」「黒滝」「糠内」「深沢」を加えた11の山々を総称して「阿仁鉱山」と呼んでいます。阿仁鉱山は北秋田市阿仁地区の歴史そのものとも言われ、延慶2年(1309年)、阿仁合の湯口内沢で炭焼きが偶然発見したと口碑で伝えられています。金山の開発後、銀、銅と続々と山の開発が進み、昭和53年(1978年)に閉山するまでおよそ670年もの間、阿仁地区だけでなく日本の産業・文化を支えてきました。

 
 江戸時代の経済は大阪を中心に動いていました。阿仁鉱山で産出した銅は、阿仁川、米代川を下って能代港で陸揚げし、北前船により日本海を渡り大阪まで送られます。大阪の吹屋(金銀などを精錬、鋳造する家)で精錬された銅は、長崎に運ばれ外国に輸出していました。当時の日本貿易における38%、約4割が阿仁の銅で占められていたといいます。最盛期の江戸時代、享保元年(1716年)には産銅量日本一になり、日本三大銅山の一山を担う山となります。
 
 その存在の重要度は、阿仁鉱山を訪れた人物からも伺うことができます。秋田藩の初代藩主・佐竹義宣は、家臣・梅津政景を鉱山経営にあたらせました。9代~11代の秋田藩主は実際に阿仁鉱山を訪れ、中でも9代藩主・佐竹義和は、308人のお伴を引き連れて阿仁鉱山を視察に訪れたといいます。鉱山を視察した様子や銅の精錬の順序は、当時の日記にも記録されています。
 
 安永二年(1773年)に秋田藩は、鉱山技術の指導のため、石見銀山での経験を持つ吉田理兵衛と平賀源内を招きました。平賀源内は鉱山のロクロ作成のため、角館の職人に阿仁の良質の粘土で「水無焼」と呼ばれる焼き物作りを指導しています。水無焼は、仙北市の白岩焼の流れを汲んでいると言われています。明治に入ってからは、伊藤博文や木戸孝允といった、明治政府の要職についた人物が視察に訪れました。
 
 阿仁地区には、鉱山の歴史に触れられる「阿仁町郷土文化保存伝承館」や国重要有形文化財に指定されている「異人館」があります。この異人館は、明治15年(1882年)、ドイツ人鉱山技師アドロフメッケルらによって建設された煉瓦造りの洋館で、当時、外国人用の官舎として使用され、現在も残っています。その他にも鉱山に関連する寺社仏閣やトロッコが引かれた坂道など、市街の至るところに鉱山史跡が残されています。阿仁鉱山は平成19年(2007年)に、経済産業省の「近代化産業遺産」に認定されています。
2012年5月掲載
 
 ■参考文献
 『阿仁町史』

ページ上部へ戻る

北秋田の関連情報