画像:堀回地域の歴史

-小野寺氏を偲び、慕う-

 堀回を含む元西地域は、「元西馬音内」という古名から「元西」と呼ばれています。その名のとおり、もともとはこのあたりが「西馬音内」の中心でした。

地域現在の元西小学校の敷地と背後の山には、中世の城「西馬音内城」が築かれました。戦国時代、秋田県南部を支配した小野寺氏の支城であった西馬音内城を中心として、城下町は発展していきます。堀回、という地名もまた、そうした歴史から生まれました。戦国時代末期、関ヶ原の混乱のころ、山形県最上地方を拠点とする最上氏との抗争の結果城主、小野寺肥前守茂道は自らの手で城に火を放ち、自身は庄内へと落ちのびて行きました。※写真は西蔵寺境内にある小野寺氏の墓所です。

 小野寺氏の治世が安定していたこと、さらに戦乱の危機の際には城主が城下での戦いを避けたことで、元西地域は戦国を通じてほとんど戦火に巻き込まれることもなく戦乱の世を乗り切ることができたといわれています。

 戦国の世の習いとはいえ、西馬音内城、小野寺氏、そして家臣たちに関する悲運は、今でも語り継がれています。そして、城主、家臣たちの無念を偲び、霊を慰めるために、元城盆踊りは始まったと言われています。
 
 江戸時代、佐竹氏が支配するようになってからは、周辺で次々と新田が開発され、水不足に陥ったり、草刈り場の不足が起きたりと、争いが起こるなどの問題も起きます。藩に願い出たり、周辺集落との粘り強い交渉を重ねたりと、堀回地域は自分たちの権利を守りとおしていきます。
 
 明治中ごろには、大洪水が地域を襲います。死者22名、馬3頭、田畑の流失や作物の被害も大きく、地域全体が貧困にあえぐこととなってしまいました。盆踊りや獅子舞といった文化どころか地域そのものが危機に瀕した時期もあったのです。
 
 しかし、堀回コミュニティの結成、そして、コミュニティの呼びかけによる地域の人たちの協力により、伝統芸能の保存、復興、西馬音内城を中心とした史跡の整備、湧水の復活など様々な活動が行われます。
 
 現在、堀回の伝統も、そして貴重な歴史遺産も、地域を思う人たちの手によって守り、受け継がれています。
 
平成22(2010)年8月掲載
■参考文献
『羽後町郷土史』
『水と緑と史跡の里 見て歩記・資料編』

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