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歴史を知る

多くの力士を生んだ仙道地域の「草相撲」

画像:多くの力士を生んだ仙道地域の「草相撲」

 明治から昭和初期にかけて、「田舎相撲」「草相撲」と呼ばれた地方の祭礼を巡行する相撲興行が多く行われていました。昭和2年(1927年)に全国で相撲協会が統一される以前は、大阪と東京の協会が2大中心地であり、地方にもそれぞれの地域に相撲集団が組織され、各地を巡業していました。髷を結い、化粧回しをしめた力士たちが集まり、行司もいて番付表も発行され、本格的な相撲を見せていました。

娯楽の少ない時代、若者たちはもっとも身近なスポーツとして相撲に熱心に取り組み、仙道地域は多くの力士を輩出しました。大正時代から戦前にかけてプロの力士も数名デビューしたと言います。その中には、後年、仙道地域で鷹匠となった土田林之助(1896年~1974年)もいました。力自慢であった林之助は19歳の時に「草刈りに行く」と言い残して仙道地域を出奔、大阪相撲で修行しました。三段目まで昇進したところで召集令状が来て陸軍で3年間の軍隊生活を送りました。再び上京して「安田川」を名乗って江戸相撲に入門。ようやく幕下になれたというところで、再度の召集令状により弘前連隊に入隊。この時は短期間で除隊できたものの、折悪しく関東大震災で江戸相撲も壊滅的な被害を受けてしまいます。三度目の上京を諦め、夢半ばで仙道地域に帰郷することとなりました。土田林之助のライバル・大蛇山は羽後町出身の力士。大正15年(1926年)、江戸相撲の5月場所で平幕優勝を成し遂げており、当時の秋田相撲のレベルの高さがうかがえます。

仙道地域には、優れた力士をたたえる碑が3か所に残されています。
 
 「無敗の大関」として名を馳せたのは畑の沢集落出身の東里平治郎(1882年~1947年)。当時、秋田県内有数の規模で毎年開催された光風園場所(現在の由利本庄市愛宕山で開催。六郷藩の御上覧相撲の流れを汲む大会)に8年連続出場・3年連続優勝の記録を打ち立てました。東里は多い時で20名ほどの力士を束ねていたと言います。大正8年(1919年)、37歳で土田林之助に敗れたことで引退を決意しました。大正9年(1920年)、弟子たちが記念の石碑を仙道地域の風平に建て、引退相撲が盛大に行われました。また、東里平治郎の長男・菅野重雄は草相撲の行司として活躍し、後に日本相撲協会からも行司の資格を与えられています。

東里の師匠にあたる東山辰五郎(1868~1922年)の石碑は中仙道にあります。明治44年(1911年)に建立されました。東山平治郎の従兄弟であり、師匠である出羽野山三蔵の石碑は大正4年(1915年)に建立されたものが仙道沢集落に残されています。江戸相撲で三段目まで昇進したものの母親の看病の為、仙道地域に帰郷し、草相撲の頭領として興行しながら後進の指導にもあたり、多くの弟子を育てました。
仙道地域の若者たちに長く愛された草相撲ですが、高度経済成長期を迎えた昭和30年代には下火となり、石碑がその歴史を静かに語るのみとなっています。
 
■参考文献
羽後町郷土史編纂委員会「羽後町郷土史」
武田憲一「仙道番楽一代記」
仙道の歴史を探る会 「仙道の地域誌」
朝日新聞 「碑の村」昭和53年1月掲載
土田章彦「鷹匠物語」「鷹匠ものがたり」
 
2016年3月31日掲載

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