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歴史を知る

義経三貫桜の伝説

画像:義経三貫桜の伝説

 麓に真人(まと)公園がある「真人(まと)山(標高391m)」は古の伝説が残る山です。真人山の鷹の羽は、古くは京都の朝廷にも献上されたと言われ、江戸時代の紀行家・菅江真澄は著書「雪の出羽路平鹿郡」「平鹿のみたか」に、真人山の鷹伝説を記述しています。古くは藤原光俊が「出羽なる 平鹿のみたか 立ちかへり 親のためには わしもとるなり」と歌に詠むなど、名鷹の産地として知られてきました。

 
 平安時代には、前九年の役(1052年~1062年)で、源頼義・義家側について安倍貞任(さだとう)を討った清原真人武則(たけのり)が居城したとの説もあり、真人山は歴史の舞台にその名を残してきました。中でも源義経が真人山を通ったと言われる「義経三貫桜の古道」は有名です。
 
 義経が兄・頼朝と袂を分かち、奥州平泉に下る際、真人山の古道で岩肌の上に咲くヤマザクラの枝を折ってしまいました。その時、齢80程の姿に身をやつした桜の精に叱られ、金三貫を差しだし謝罪したという伝説が「雪の出羽路平鹿郡」に記されています。この桜は「三貫桜」「銭かけ桜」とも言われ、現在も真人公園から男亀山(おがめやま)に向かう途中、倉刈沢(くらかりさわ)貯水池を越えたあたりの山の上に佇んでいます。
 
 真人公園内には、難所「真人へぐり」を開通した義人・久蔵の碑や、文久3年(1863年)に建立された「真人三十三観音」が遊歩道に点在しています。天下泰平や、二世にわたる安楽を願い建立されたものですが、明治時代、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく・仏教を排斥する運動)の影響により、観音像は散逸してしまいました。昭和5年(1930年)の道路工事の際、各所から像が発掘されたため、有志により「真人公園観音霊場」が発願され、現在は真人橋から公園に続く遊歩道に、1番から33番までの像が安置され、住民の信仰を今も集めています。
 
2013年8月掲載
■参考資料
『増田郷土史』増田町
『真人公園内 説明看板』
 

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