戦国時代、由利地方は「由利十二頭」と呼ばれる領主たちによって治められ、それぞれの領主が時には敵対し、時には同盟して戦乱の世が続いていました。
その中のひとり、坂之下地域付近を根拠地に矢島周辺を治め、仁賀保氏と鋭く対立しその名をはせたのが大井氏の一族です。
時は応仁元年(1467年)、室町時代と戦国時代の丁度境目ごろの時期、百年にわたり領主不在となった由利地域を統治すべく、衆民たちの懇願によって信州佐久から下向してきたのが「由利十二頭」の始まりと言われています。
大井氏は矢島を中心にその勢力を伸ばし、矢島氏とも呼ばれる一大勢力を築きます。その大井氏最後の武将となった「大井五郎満安(光安とも言う)」は豪勇で知られ、『奥羽永慶軍記』や『由利十二頭記』などでその名前を見ることができます。容貌は六尺九寸(約2m)の巨躯に「熊のような」毛が生えていたといいます。愛馬「八升栗毛」にまたがり、七尺(2.1m)の筋金入りの樫の棍棒を振り回す勇ましい武将だったと伝わっています。
彼の馬「八升栗毛」は栗毛の馬で、戦のたびに八升(約10kg以上!)の大豆を一度に食べて戦に臨むことから、その名が付けられたそうです。
仁賀保氏との対決では、4度にわたり仁賀保氏当主を討ち取るという活躍を見せ、また、山形を支配した最上義光(よしあき)との面会では、5~6人前の食事を平らげ、鮭を1匹丸ごと食べるなど、その豪胆ぶりを喜んだ義光が暗殺を止め、代わりに協力を約束したという逸話も残ります。
しかし、仁賀保氏の調略はこのとき五郎の家臣に及び、五郎不在の矢島で謀反が勃発、急ぎ戻った五郎の手により鎮圧されたものの、重臣を失いその勢力は大きくそがれてしまいます。
坂之下の西側にあった大井氏の本拠地、新荘館では防ぎきれないと判断した五郎は、東側の要害、荒倉館へとこもり決戦を行うことを決意します。このとき、不利を悟った家臣がさらに離れて行ったと言われます。