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歴史を知る

洞昌寺と菅江真澄

画像:洞昌寺と菅江真澄

 江戸時代の紀行家・菅江真澄の足跡を中石地域で見ることができます。中石地域の中心部に位置する「洞昌寺(どうしょうじ)」境内には男鹿市教育委員会が設置した真澄の標柱があり、文化7年(1810年)に洞昌寺を訪れた真澄と住職の交流の様子が標柱に記載されています。

真澄は当時57歳。文化7年(1810年)の夏から年を越した小正月まで男鹿で見聞きした内容を「牡鹿の寒かぜ」に記しました。この日記には同年起こった男鹿大地震の被害状況が詳細に記されています。寒風山近隣を震源とする直下型地震で「五里合(いりあい)郷土史」によると、五里合地域だけでも全壊950棟、半壊345棟の被害が出たと記されています。

地震発生時、男鹿中地域の滝川に滞在していた真澄は、その後、五里合(いりあい)地域に移動し、鮪川(しびかわ)地域にある湧水地「滝の頭(たきのかしら)」を訪れ「地震により水が増して不思議だ」と記述しています。さらに中石地域に移動した真澄は、人々が地震を恐れて村の東にある「岡獅子(おかじし)」という小山に逃れて仮小屋を建てたと記述しています。
 
 その後、洞昌寺を訪れると寺は倒壊しており、住職の俊山法樹は近くに仮の庵を作って暮らしていました。住職は狂歌をたしなむ人で、真澄が「時雨ふる庵にふし柴折りたきて こころあるじとかたるたのしさ」と読むと、「しぐるるや見よ無一物草の庵」と住職が詠み、「揚る拳に香る山茶花」と真澄が返すうちに夜もふけていったと記載しています。
2014年2月21日掲載
 
■参考文献
『菅江真澄読本3』『菅江真澄読本4』『菅江真澄遊覧記5』
『菅江真澄全集 第4巻』『五里合郷土史』
 

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