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歴史を知る

馬場目・杉沢地域の歴史

画像:馬場目・杉沢地域の歴史

 天正15(1587)年、安東家の「湊家先祖・家臣書上」では、一族の季宗が5番目に格づけされています。主君・安東愛季の兄弟を除くと季宗が最高位となることから、厚い信頼を寄せられた人物だったようです。

 季宗は馬場目城主を務めて、「馬場目殿」と呼ばれていました。
 
 馬場目・杉沢地域を含む五城目町は、当時から交通の要衝でした。県北から秋田方面を目指すには、現在の県道4号線に沿った「檜山街道」を通って、五城目の城下町を経由します。
 また、内陸部から同様に南下する場合、馬場目・杉沢に至ってから仁別に抜ける山道を歩きました。このルートはよく用いられ、江戸時代にいったん消滅した合地集落に阿仁・根子の住民が移り住んで再興するなど、人と文化を運んでいます。
 
 安東氏の全盛期を築いた愛季の時代には、主要3城の能代・檜山城、男鹿・脇本城、秋田・土崎湊城を結ぶ街道が交わる、さらに重要な中間地点になっていました。
 馬場目領はその一画であるのみならず、安東水軍を支える資源庫としても重視されています。船体に必要な木材を調達できる豊かな森林に恵まれていたのです。
 
 それらを守る大役に加えて、馬場目殿は後世に置き土産を残しています。それは、元亀の頃(1570~1573年)に馬場目町村で開いた「市」でした。
 大小の戦が絶えない中で、定期的に市を催した事実は、馬場目殿の支配力を示すものだとされています。
 
 文化6(1809)年、紀行家の菅江真澄は「馬場の目の荘」に立ち寄って、馬場目殿の手紙など、市に関わる文書を目にすることになりました。この地域に多い斎藤姓の宗家、伝七の屋敷に保管されていたものです。
 斎藤伝七家は、代々、馬場目安東氏に仕えた家老格で、伝七を襲名しています。馬場目城が廃されて、元の豪農に戻っていました。
 
 真澄はその中の一つ、市奉行の名による制札に興味を持ち、筆跡をなぞって書き写しています。内容は、「馬場目市」が楽市楽座のような自由な交易の場であったことを証すものでした。
 「ここに六斎の市人群れて郷饒ひ栄えたり――」、真澄は『ひなのあそび』に書き留めています。
 
 馬場目城下の市は数十年で五城目本町に移されました。今に続く、五城目朝市がそれです。
2010年4月掲載
 
 菅江真澄著「ひなのあそび」写本
 
■参考文献
『五城目町史』
『ひなのあそび』菅江真澄著

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