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歴史を知る

内川の歴史と菅江真澄

画像:内川の歴史と菅江真澄


  五城目町の内川地域には、縄文時代から村があったと云われています。内川地域・湯の又集落には「上台(うえで)」という場所があり、そこでは、耕しただけで「矢じり」などの石器が発見されたと云われています。
 
 また、内川の集落には中世のものと思われる「のろし台」の跡が残っています。
湯の又、浅見内に各2か所あり、湯の又には湯の又の集落が一望できる「高台(たかだ)」と、浅見内の谷地田と下流の高台も直線的に見通すことができる「上台(うえで)」があります。浅見内には浅見内集落を一望できる「鬼の火台(きのびだい)」と、現在では畑地と宅地になっている「上の宮山(かみのみやま)」があり、これらは「北からの侵入に備えてこの方面に注意を集中したものと考えられる」と記されています。
 
その浅見内谷地田には、「浅見内館」と呼ばれる館跡や住宅地の中にひっそりと佇む五輪塔が見られます。その五輪塔は、「浅見内館」の館主に関連しているものではないかとされていますが、本当のところは分かっていません。
また、内川地域には中世からの古道があり、湯の又、浅見内を経て檜山、能代へと通じていました。その道は大正初期には郡道となり、現在の県道4号線になっています。
 
 中世と言えば、歴史上でも最大規模の「天保の大飢饉」が内川にも暗い影を落とします。
 
 雨が全く降らない日が続き、夏には雪が降り、異常な天変地異が飢饉を引き起こしていました。天保の飢饉は天保2年から7年までの5年間続きましたが、内川では天保4年(1833年)が最悪だといわれ、天保巳年のけかじと呼ばれました。
この時、村の人々は山の草や実などを食料にして、飢えをしのいでいました。その時に餅として食べられていたわらびの根は、その後「ねばりもち」という郷土料理へと姿を変え、現在では作られることは無くなりましたが、浅見内地域の方々に食べられていました。
 
 内川地域には、江戸時代の紀行家、菅江真澄(すがえますみ)も訪れており、真澄が綴った『ひなのあそび』そして『雪の出羽路』に、内川地域各所へと訪れた際の記述があり、黒土村、浅見内村について記されています。黒土村は中世末期の頃には「袁南古村(おうなこむら)」に属していました。現在の小倉温泉のふもとから内川郵便局付近と、富田の一部に黒土を含めた一帯がおうなこ村と呼ばれていたと郷土史には書かれており、おうなこ村はその当時、かなりの広さだったことが伺われます。
真澄が綴った『雪の出羽路』にも「五十目山内に袁南古(おうなこ)の林、松原山内に袁南古沢あり、雄勝郡高松の女沢(おなござわ)も宇奈古沢ならん」と綴っており、おうなこ村が中世までは確かに存在したことを表しています。
その後、真澄はもう一度黒土を訪れ、『ひなのあそび』を綴っています。その中で真澄は、野も山も黒土なので、その様子が村の名前になったのですか?と案内の人に聞いていますが、郷土史によるとずっと昔の黒土村は、赤土村という名前でしたが、村の中で火災がよく発生しており、途方に暮れた村人は、神頼みをしても安心できず、村の名を赤土から黒土に変えたといういわれが残っていると書かれています。
また、浅見内村のことについては「中世に山内城下の修験者は浅見内で修行したともいう」と記されています。
 
 浅見内村には神明社と蔵王権現社があり、北東に滝、その近くには不動堂と稲荷堂、そして湯ノ越山には薬師堂があったので、修行道場として使える場が適当に点在していたため修行には最適な地域であったと推測されます。また、湯ノ越山のふもとには「湯の越温泉」が湧いており、修験者たちが、修行のあとには湯治客として訪れていたと思われます。
 
 その後、浅見内小学校が建立され、敷地内に温泉がある学校として親しまれました。
 
 しかし、昭和42年に小学校が移転し、それと同時にお湯が湧き出ていた場所は埋め立てられてしまいます。
現在、内川地域で「湯の越の宿」として親しまれている温泉は、平成6年に、当時お湯が湧き出ていた側を深くボーリングして発見されたもので、その当時小学校で温泉に入っていた方々は、懐かしい気持ちで「湯の越の宿」を訪れています。
2011年4月掲載
 
■参考文献
『湯ノ又郷土誌』
 

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