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歴史を知る

本館の歴史

画像:本館の歴史

 本館地域は、白神山地に連なる里山と日本海との間で、20軒ほどの家を、絶やさず増やさず、保ち続けてきた集落です。30軒を上回ることを禁じた不文律が伝えられ、独特のコミュニティーが維持されてきました。失われかけた歴史の1ページが、ここでは語り継がれています。

 本館の名称が史書に現れるのは、応永元(1394)年からのこと。安東成季によって建てられた城館でした。現在、住宅が集まっている高台がその場所にあたり、周りに広がる田地の中には日和見館がありました。海を背にして本館へ駆け上がる坂は、今でも表門の坂と呼ばれています。
 
 天正10(1582)年、戦国大名の安東愛季が、背後の山上に新城を築き、本館は要害に生まれ変わりました。そして、慶長元(1596)年、津軽氏への抑えとして城主に据えられたとされるのが、武田重左衛門という武将です。
 
 重左衛門は、甲斐国(山梨県)・武田氏の一門とされ、主家滅亡の際に日本海に逃れて福浦村(能代市)に辿り着いたとも、武者修行をしながら北を目指したとも云われています。大合戦に幾度も加わった経験を、当代の安東実季に見込まれて取り立てられたと伝えられます。
 
 10年後の慶長10(1606)年、重左衛門は百姓一揆に遭い、自害したとされます。過酷な検地によって反発を買ったともいわれています。が、同時期の一揆を書き連ねる『羽陰史略』では、本館落城の件に触れていません。
 記述を憚った諸説の理由の中には、武田氏の脈流を途絶えさせようとした徳川家康が、百姓の扇動を指示していたなど、興味深い内容のものもあります。
 
 重左衛門が所持していた油紙は地図を包んだもので、信玄の子・勝頼から埋蔵金を託されていたとか、大力の息子・半三郎、あるいは孫の亀千代が津軽領に落ち延びたとか、今も集落には断片的な逸話が息づいていますが、伝承の域を超えるにはいたっていません。
 確かに遺されたのは、重左衛門の墓と位牌のみ。そして、延宝元(1673)年に『六郡郡邑記』が示している、城跡に15軒の集落が興ったという事実だけです。
 
 重左衛門がこの世を去るのと入れ違うように、本館に入った尼がいました。西国の育ちで、断崖の岩穴に暮らすようになり、人々の病気と悩みを癒したというほかは何も分かっていません。尼が住んだ岩穴は、尼子岩と名づけられました。
 昔から、日本海の潮流に乗った船は、秋田に向かうとされています。波に運ばれた数奇な生涯は、数多く存在するのかもしれません。
 
 
 
菅江真澄が描いた「尼子岩」 
■参考文献
『八森町誌』
『朝霧の斗星たち』 太田實著
2010年4月掲載

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