本のちょっと

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郷土図書室


奥村和久著
  東の紙から西の紙へ

 著者は創業百五十年という秋田市の老舗三伝商事の専務取締役で、日大を出て入社以来四十年、営業畑一筋に歩んできた。主な扱い品が"用紙"だったこともあるが、佐藤信淵の『経済要録』で、藩内人口の四割が餓死したといわれる天明の大飢饉の折、紙によって命が助かった人が大勢いたことを知って感動、いっそう紙に対する思いを深くしたという。本書執筆の動機である。
 本書は、著者が二人の専門家に聴くという対話形式で書かれている。一つは紙の博物館学芸部長小宮英俊氏で、《紙の文化をさぐって》の中身は紙の歴史、秋田の和紙づくり、仏教と紙、衣・住と紙、洋紙の移入など二十四話。
 もう一つは、王子製紙・日本紙パルプ商事を経て紙の技術研究所を主宰する秋保清武氏で《紙と印刷文化にせまる》。ここでは製紙産業の黎明(れんめい)期、印刷の歴史と未来、そして最も今日的なダイオキシンと製紙工場に及ぶ二十六話が語られる。
 紙の消費は文化のバロメーターともいわれ、どのような家庭にあっても日常欠かせない紙について、東西文化の交流を興味深いエピソードを交えながら語り合って、読者にはいろいろな知識を与えてくれる。

 四六判二七六ページ・一九〇〇円。秋田市山王7-5-10、秋田文化出版刊


渡部綱次郎著
  近世秋田の学問と文化(儒学編)

 近世秋田の教学についての著者の所見をごく短く、本書の大半は藩校明徳館初代祭酒(学長)中山菁莪(せいが)が八代藩主佐竹義敦(よしあつ)に呈した「上書(じょうしょ)」つまり学問の振興・藩政改革について述べた意見書と、その門弟で角間川(かくまがわ)(現大曲市)郷校教授だった落合東堤(とうてい)が、九代義和(よしまさ)に呈した藩政改革にかかわる「上書」、そして東堤に宛てた菁莪からの書簡の翻刻(ほんこく)文が占める。いわば資料編である。
 ほかに中山菁莪日記の書抜き、菁莪が書き東堤が増補し、沼田宇源太が編集騰寫(とうしゃ)し、秋田時代の木堂(ぼくどう)犬養毅が序文を書いたという『靖献遺言(せいけんゆいごん)講義』、大友親久(ちかひさ)の書寫(しょしゃ)になる『藩校日記』『神国之説』など四冊の翻刻も収める。巻末には関連年表も。
 著者は県立博物館勤務で定年の元教師。秋大史学会に属し、これまでも秋田の中世史や近世のとくに教学面についての論文が多い。半世紀に及ぶライフワークの大成として、このあとに和学編、洋兵学編の刊行も予定しているという。

 A5判五四八ページ・実費頒布。秋田市仁井田福島1-18-3、秋田古筆学研究所刊


細田修一郎遺稿集
  高きに登れば人をして

 標題は『菜根譚(さいこんたん)』の一節〈高きに登れば人をして心曠(ひろ)からしめ、流れに臨めば人をして意遠からしむ〉による。山好きだった著者が、汗みどろの末に山頂を極める、そのたびに心の中に去来するのはこの言葉だったという。
 米内沢高校教頭を平成四年に定年退職。その五年後の昨年、悪性リンパ腫のため告知からわずか三週間の入院で逝った。地域では「キノコ先生」で知られた著者は、慶応大学文学部の出身で国語科教師。しかし趣味は広く深く、地域ではソフトバレーボールの熱心な指導者であり、秋田千秋書会に所属して書道も能(よ)くした。
 小説の執筆にも手を染め、海釣りも楽しむ。教師としては学級通信を発行して生徒との心の交流に努め、二年間に五百七十号にのぼるその一部を『アラウンド・長野岱の邂逅』としてまとめている。なかでも最高の趣味はキノコと山野草で、自費で『キノコ研究』を十八集まで出している。
 本書は地元の秋北新聞に発表した文章を中心に、学校新聞や教員団体の機関誌などに載せたもので構成されるが、著者の撮影になる山野草のカラー写真もふんだんにおさめ、また書作品や想い出のアルバムからもあって、一周忌に当たっての出版にふさわしい故人追悼の一冊である。

 四六判二三ページ・非売。北秋田郡合川町李台二九六、細田ムツ子、私家版


小川原慶太郎著(豆本)
  柳窯かまぐれ春秋記

 著者は戦地で九死に一生を得た。復員後、雑誌記者を辞めて約三年半知多半島を放浪しながら常滑焼(とこなめやき)を修業した。郷里湯沢に「柳窯(やなぎがま)」を築いて四十五年、豆本やこけしの収集、凧(たこ)絵描きにも趣味を有するその人柄を映した種々の小物をひっそりと焼いている。湯沢の郷土行事にちなんだ陶製「犬コ」もこの人の創作。
 一方、作家永井龍男に私淑した俳人でもある。本書はその句集で、九十六句をおさめる。"窯(かま)ぐれの記"の部分は、編集者吉田朗氏が小川原氏へのインタビューによって構成した。秋田ほんこの第3期第7冊。
  窯ぐれの顔の黒さや柿を食ふ
  草いきれ一過の雨の窯場道
  打ち崩す陶土断層夏の蝶
  暖房のきく日きかぬ日暦果つ

 8センチ×10センチ七四ページ・七〇〇円。秋田市新屋割山町3-52、秋田ほんこの会編集部刊


大館鳳鳴高等学校
  百周年記念誌

 明治31年3月、秋田県立第二尋常(じんじょう)中学校として創立された大館鳳鳴高校は、県南の横手高校と並んで今年百周年を迎えた。その記念誌で、大略「百星霜(ひゃくせいそう)」と「大中鳳鳴・百年史の人びと」の二部と資料から成る。
 同校は先に『大中鳳鳴九十年史』で、創立以来の歴史を詳述した。ために「百星霜」では思い出の写真を中心に校史を略述する編集方針をとり、最近十年史を付加した。
 「百年史の人びと」は各分野ごとに著名な同窓生を紹介する。文壇に安成(やすなり)貞雄・二郎兄弟、歌人佐々木妙二、洋画家伊勢正義、チャタレイ裁判の相馬貞一、パウリスタ新聞創刊の蛭田徳弥、南極越冬隊長武藤晃、流行歌手上原敏、オリンピック選手佐々木吉蔵、そして唯一現存者だが世界的舞踏家大野一雄などなど多士済々で、大中教師の長男で馬賊(ばぞく)将軍左剣龍(さけんりゅう)なる人物もいて興味津々。見せて読ませる年史である。

 B5判二〇八ページ・三〇〇〇円。大館市金坂後、鳳鳴高校内記念事業実行委員会刊


和洋学園七十年史

 千秋公園の壕(ほり)に影を落とす学び舎秋田和洋女子高校は、幼稚園と共に学校法人和洋学園の経営になる。
 昭和3年、愛国婦人会秋田県支部のもとに講習科として創立され、愛国女学館を経て終戦直後は秋田女学館。ここまでは各種学校で、ために戦中は十七連隊の臨時兵舎、また日赤看護婦養成所の寮として収用されたこともある。そして太平洋戦争末期には休校も余儀なくされた。21年に再開、23年の六・三制の実施の際新制高校として認められた。
 ハンドボール、なぎなた、ギターアンサンブルでは全国優勝という輝かしい歴史を刻んでいる。「輝く卒業生」の章には、オーストラリアで夫君と旅宿を営む旧姓五十嵐喜代子さん、日舞鳳流家元の鳳禮子光さん(大宮市)、女子プロレスラーでJWPチャンプの福岡晶さんらが思い出の記を寄せている。

 A5判二九六ページ・非売。秋田市千秋明徳町2-26、学校法人和洋学園刊