拝啓、ふるさと様。(20)

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俳優 粟津號

 ふるさと。秋田。男鹿半島。ふるさとには感謝だよねえ。それにこの頃しきりに生まれ在所のことを思う。暮に、ガッツ石松氏と仕事いっしょだったんだけど、いきなり気が合っちゃってね。不思議な気がしたくらい。プロデューサーがいうんだよ。「日本人"純粋種"の二人だね」って。山田洋次監督にいわれたものなァ。「今どき貴重な顔と体型だよ。日本にも大正から昭和初期までは君みたいな男が多かったんだが…。今は少なくなったねえ…特に、役者に少ない」。ガッツ氏はS・スピルバーグの映画に出たし、俺もワーナーブラザースの『Women of Valor』(一九八六)フィリピン・ロケ。英豪合作『Heroes II』(一九九一)オーストラリア・ロケ。おのおの、約六百人の中から「OH!この人。イメージぴったりです。貧しい農村から出てきた鬼軍曹・コダマ役。やって下さい」。日本代表俳優に引っこぬかれた。選考条件に「体格はがっしり、ずんぐり。四角っぽい。普段は人が好さそうにニコニコ笑っているのだが、"天皇"の命令。この一言でガラリと変わる。テリブル・リトルマンである」とあった。なあるほど、やっぱり俺かな。異国の地で青い目の人たちと撮影しながら、はるかふるさとを想いましたよ。
 ああ、俺の先祖は代々、八郎潟の雑魚を食べ、寒風山の麓のワラビやフキをちぎっては食らい、男鹿の海のハタハタ、海草、サザエで暮らし育ったこの体なんだよなァ。ふるさとが泌みているんだ。母方の里のことを思えば平鹿盆地・浅舞の米、りんご、きのこ、野菜。祖母は県北・阿仁合が生まれ在所。「おばあちゃんのところの万能薬だよ」となめた、あの熊胆(くまのい)の苦かったこと。ああ、粟津號の肉体には秋田が詰まっている。ガッツ氏?あのチャンピオンには栃木県が詰まっているよ。ガキ大将のまんま…。心やさしい男気にあふれたヒト。大好き!他人に思えない。"俳優"という被写体となってふるさと・秋田のことをまずは肉体で思うんだ。心の中にも秋田はいるねえ。嘘つけない。不器っちょ。お世辞が出てこない。その場で怒れない。一日たってから憤ってきたりする。ほめられれば何でもやっちゃう。ブタも木に登る。もへこしょう(おだてにのる)こと半端じゃない。父親がそうだったなア。秋田の人たち、おっかねツラしてあんがい気持ちはやさしいんだよね。「もっと恐い人かと思ってましたよ」「何いってる。ダマコモチ食わしてやるから遊びに来い!」「あ、いきます。ダマコモチって、何ですか?」「キリタンポの原点だ。こっちが旨えくれえだ」。鯨の白い脂身(塩くじら)をたんざくに切って茄子入れて味噌で煮る汁もうまいよなア。
 あ、そうでした。もうひとつ大事なことをふるさと様に報告しなければ…。俺ネ。

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東京にあこがれて、その勢いで東京の女と暮らしてたことあったんだ。で、ダメで…。ま、役者は独りの方がいいかなと思っていたんだけど、このたびヒョンな縁で嫁さんもらったんだよね。どこの誰だと思う。わかるわけねえ。スイマセン。同郷・男鹿の船越の生まれ。船越小・中学校の七つ後輩の美人妻だ。エヘ、アハハ。そうなんだ。そう四年くらい前の初夏の頃。東京は青山で、色っぽいいい女に声かけられた。「あの、アワヅ・ゴウさんですね」(あれッ、おれのフルネーム知ってんの?顔は見るけど名前が…とは言われるけど、俺も売れてきてるなァ。)「船越なんです、私も。じゃあ…」(もう、いなくなっちゃった。へんな会話。)毎年一回開く『首都圏・男鹿の会』という在京のふるさと会がある。そこで再会した。「やあ、あのときの」「どうも」。船木倶子というその名も、その日わかった。號は中学二年のとき映画に出たことがある。東映教育映画『なまはげ」のロケ隊が主役の少年を現地でさがして撮影するということで地元・男鹿市の中学生を対象に面接した。選ばれたのは、この私。心のきれいなやさしい少年。ただ、知能が遅れているのでまわりから馬鹿にされ、いじめられるが、"なまはげ"が唯一、自分の味方だと思っている…という役。どう、ピッタリでしょ?どこが。話がそれている。それていません。その映画を倶子が「小学校二年のとき、学校で観たんです。アラー。ステキ。と、心ときめきました。そのときからのファンなんです」という。"俳優"はこれだからやめられないってば。チガウチガウ。中学生のころの話。これは。でも、うれしかった。デート申し込んだよ、早速に。浅草で"なまず鍋"を食べたんだ。八郎潟は魚いっぱいとれるけどなまずは食べなかったよ。きっと同郷の人と田舎っぽいもの食いたがったんだねえ。心の素直な、まじめな姿勢の詩人でね、倶子は。ライフ・パートナーとして、助け合って生きていこうよ、と約束した。そのうち、実家どうしで行き来が始まって、「うちの息子が世話になってるそうで」「なもなも、うちの娘こそ、世話なって…。なんぼ頼りにしてるやら、こっちも安心しているッス」。JR・新浦安(ディズニーランドのとなり駅)の俺の部屋に、倶子は青山から移り住んだ。あの浅草でのデートから丸二年たった一九九二年十二月二十五日、入籍。その日、男鹿へ飛び、あととりの弟ち、粟津寛之と船木義光が指揮してその夜、船越の料理屋で両家族集い食事会をした。さきやかな結婚の宴である。雪が降りつもる生まれ故郷での契りであった。倶子の父が一滴も飲めない酒をうれしいからと呑んでむせた。
 一九九三夏。粟津號にとって"ふるさと"は競争・一千倍の芸能界に斬り込むべき新たな原動力になろうとしている。
 ふるさと様。あなたもお元気で―。



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粟津號(あわづ・ごう)

昭和20年男鹿市生。本名祐教。生家は浄土真宗・円応寺。船越中学校、県立秋田高校から39年東洋大学法学部へ進む。中学3年の時、地元中学生三千人の中から選ばれ、東映教育映画「なまはげ」に出演。「教師になって寺を継ぐ」つもりが、「住職は老後でいい。男なら中央で活躍してみろ」という父のことばに、大学4年の時に俳優を志し日本アカデミーに入る。妃年俳優小劇場に入所、2年後に研究生。46年同劇団は解散するが、この頃神代辰巳監督と出会う。昭和42年度「キネマ旬報」男優賞にノミネートされ、以後「四畳半襖の裏張り」などロマンポルノで活躍するほか、ATG「竜馬暗殺」、松竹「遙かなる山の呼び声」などに出演。 テレビではNHK「元禄太平記」「黄金の日々」、NTV「大都会」、テレビ朝日「豆腐屋直次郎・裏の顔」など多数にレギュラー出演。同61年ワーナーブラザーズ「WOMEN OF BALOR」や一昨年の英豪合作映画「HEROESII」など外国映画には日本代表俳優に選ばれ出演。
 「生きる辛さに泣きはしない、生きる喜びに涙する」を信条に活躍中。
 千葉県浦安市美浜二-1-五〇二住。