拝啓、ふるさと様。

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第12回◎元オリンピックマラソン選手 山田敬蔵


 いつも温く迎えて下さる故郷秋田の人たちには、心からの感謝を忘れたことがありません。今年は、私のボストンマラソン優勝を記念して郷里の大館市に制定された「山田記念マラソン」が四十回記念大会を迎えた節目の年でもあり、四月二十九日の大会では千人もの参加者とご一緒でき、感激を新たにいたしました。
 昨今は各地でいろいろなマラソンイベントが行われていますが、私の一年は、元旦の善光寺詣でを兼ねた長野マラソン(四キロ)を走ることから始まります。海外を含め、年間の大会出場は四十ぐらいでしょうか。今年は春にバルセロナでも走りましたし、十一月にはニューヨークで走るのを楽しみにしています。ハワイのホノルルマラソンは、今年で十五回出場を果たしました。妻も十二、三年前から一緒に走るようになり、私は優勝、妻は二位と揃って好成績をあげたこともあります。
 最近は三時間三十分台を目標に走ります。思えば昭和二十八年の第五十七回ボストンマラソン、あの"心臓破りの丘"でカルボーネンら二人を抜き去り、二時間十八分五十一秒、当時の世界最高を記録したことも、記録的には遠い夢のまた夢になってしまいました。四年後、コース計測の間違いで正規の距離に千メートルほど足りないと、私の記録も参考にとどめられていますが、世界の強豪を相手に優勝できた、それだけで私は十分満足です。
 ボストンは、その後も三回ほど走りました。今は健康マラソンで誰でも出場できますから、四年後の百回大会、こんどは妻と戦するつもりです。
 その前年、日の丸を胸に故国の期待を背負って出場したヘルシンキ五輪では、二十六位という惨敗でした。なんのかんばせあっておめおめと帰国できようか、成績よりなにより、"人間機関車"ザトベック選手の驚異的な強さをまざまざと見せつけられてすっかり消沈していた私を、〈負けたのだから、頭を下げろ。あとは練習だけ〉と叱咤して下さったのが監督の金栗四三先生でした。
 以来私は、金栗先生に私淑し、唯一の恩師と仰いできました。私を招待して下さる各地の大会に金栗先生の肖像を彫ったメダルを私費で作り、それを「金栗賞」として贈っているのは、私のささやかな顕彰の気持なのです。

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 金栗先生は生涯に二十五万キロ走ったといわれています。私の初フルマラソンは、二十一歳のときの東京国体(昭和二十四年)でした。国体でフルマラソンがおこなわれたのは、この大会が前にも後にもたった一回です。三十キロ地点までは私はトップでした。「山田あせるな!そのまま行って世界記録だ」というコーチの声に気分も高揚、快調に飛ばしたのですが、二、三キロほど走ったら急に体調がおかしくなり、次々と抜かれだしたのです。ゴールは無念、七位でした。
 マラソンは食後二時間が理想といわれますのに、十一時のスタートに対し朝六時半に朝食を済ませた(それも茶碗でたった一杯)空腹のせいで、前半のオーバーぺースがたたったのです。すべては未熟が原因ですが、以来、私は「日本一」を心に秘して練習を重ね、ともかく一度は世界の頂点に立つことができました。私はそのことを最大の幸せと考え、"走る"を生き甲斐にして来ました。
 私のマラソン人生は四十五年になんなんとしています。これまでに走った距離は二十一万キロ強ですが、金栗先生の記録に並ぶには、年に五千キロとして、あと七、八年は走り続けなければなりません。
 今年は大館のほか、県内では男鹿、湯沢、西目、秋田の各地の大会に招かれて走りました。九月の田沢湖マラソンにも過去二回招待され「金栗杯」も贈っているのですが、今年は、かねてのお誘いを断りきれず岩手県山田町の三陸マラソンヘ義理だてのため欠場しました。湯沢の「七タマラソン」は真夏でしんどいのですが、あのみやびな絵灯籠の下を走る得もいわれぬ気分が大好きです。最近はボストン優勝仲間の君原健二君(メキシコ五輪銀メダリスト)を誘って、一緒に走っています。
 このあと十月には十日に雄物川町の松茸マラソン、十一月には横手マラソンでそれぞれ十キロを走る予定です。
 私は学校を卒えると、満蒙開拓青少年義勇軍の一員として海を渡りました。父と長兄は鉄道員でしたが、二男の私に当時の国鉄へ入る余地はなく、大陸に王道楽土を建設するという国策に沿って十四歳で満州の土を踏んだのです。
 敗戦・帰国、そして私は鹿角の製材工場に働きに出ました。見るとおり背の低い(一五七センチ、四〇キロ)私ですから、相棒と丸太や製品を担いでも、自然重量は私の方へ片寄せさせられます。でもそれで、私の足腰は知らず知らずのあいだに鍛えられていったのだと思います。
 その頃、たまたま出場した青年団の大会の五千メートルに優勝したことで、私にスポットが当たったのです。当時は鉱山全盛期で小野清先生、渡辺義明先生が指導する同和鉱業はとくに陸上競技に力を入れていました。こうして私は同和花岡にスカウトされることになったのですが、のちに県議を十一期も務められた畠沢恭一先生が当時労務課長で、全く技術のない私をダンプトラックの修理工の名目で入社させてくださったのです。
 のち系列の藤田観光へ移り、二十五年務めて定年退職しました。川崎市に住んで十五年。現在は岡田タイヤエ業陸上競技部の育成部長ということで、後進の養成に当たりながら、住まいが川崎大師の近くなので、参拝を兼ねての毎朝ジョギングを欠かしません。
 昨年、第一回川崎市スポーツ賞に選ばれたことは、望外の名誉と思っています。賞として文化勲章受賞者で川崎市名誉市民の円鍔勝三先生作になるブロンズ像「少女」でした。実は私には文化勲章受賞者の作品がもう一つあって、家宝として大切にしています。昭和二十九年度読売日本スポーツ賞として頂戴した、浅倉文夫先生作の、それも私の肖像なのです。
 こうした栄誉を思うにつけ、私は郷里の方々からこれまでに受けたご恩を忘れることができません。このご恩報じは、死ぬまで走り続け金栗先生の記録を破ることと思っています。
 先ごろ私は、千葉市郊外笠森観音のお膝元に墓地を買い求め、墓碑も作りました。それには「マラソン人生を終えここに眠る」と彫ってあります。




山田敬蔵(やまだけいぞう)

 昭和2年11月30日、大館市生まれ。昭和17年、満蒙開拓青少年義勇軍で渡満したが終戦て帰国。25年同和鉱業花岡鉱業所に入社、37年藤田観光に移り、仙台ワシントンホテル勤務などを経て63年退社。現在は岡田タイヤエ業睦上競技部育成部長。
 全国規模の公式大会初出場は、24年秋の全国青年大会(山ロ)で五千メートル八位。フルマラソンは同年の東京国体。以後めきめき力をつけ、この年12月の朝日マラソン(福岡国際)で2位入賞を果たしている。
 27年、ヘルシンキ・オリンピック日本代表。28年、第57回ボストンマラソンで、ヘルシンキ五輪優勝のザトペックの記録を4分48秒上回る当時の世界最高タイムで優勝。感動的な半生は根上淳・久我美子主演で「心臓破りの丘」(大映)として映画化された。
 31年の朝日マラソン優勝など数々の優勝記録があり、読売日本スポーツ賞、朝日スポーツ賞など頂点の受賞も数多い。
 川崎市藤崎一丁目13−8121号住