名人

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刀匠・柴田清次郎さん (雄勝郡羽後町西馬音内)


 米国の文化人類学者ルース・ベネディクト夫人は、日本文化の型を論ずるに当たって、その著書の標題を『菊と刀』とした。菊はいうまでもなく天皇、そして武士道道徳に育って来た日本人一般をに象徴させたのである。
 また刀は武士の魂とは、時代劇などでよく聴かれる台詞だが、永い間の日本人の倫理観の根底に"武士道"がすえられていたのだから、言いかえれば刀は日本人の魂のふるさとということになる。 最近は、骨とうブームの中でも、とりわけ刀剣に対する関心が高かまっているのは、回帰を求める心の動きからかもしれない。
 刀の歴史は古い。おそらく人類が火や器を発見する以前に、獲物をとらえ、割くために用いていたであろう。原始時代の遺跡で多く発見される石刀や石斧がそれを物語っているが、やがて銅の時代にいたって剣が登場し、しかし鉄の出現により剣が権威の象徴として儀礼的に用いられる代りに、実用武器として刀が誕生した。

 さらに日本人の独得な美意識は、刀を単に武器としてばかりは扱って来なかった。数々の名のある刀工によって作られた名刀は歴史の物語にアクセントを添え、"妖刀村正"などの伝奇すら生んだ。一方では拵(こしらえ)(刀の外装・柄(つか)、鞘(さや)、鍔(つば)など)にも競って意匠をこらし、そこには美術の一分野が発達した。
 明治七年の廃刀令によって、普通人は刀を持つことが禁じられ、刀工芸は急速にすたれた。数度の戦争のさい、わずかに軍刀製造で需要が盛り返しはしたものの、江戸時代までの刀とは、およそ心も姿も違うものであった。まして戦後は、占領軍によつて美術工芸的価値を有する以外の刀剣類一切は没収されたのである。
 『秋田県史』(民俗工芸篇)によると、昭和期に入ってからも本県には柴田果、佐藤重則、堀川治右衛門、信太国祥、鈴木国慶という五人の刀工がいたことになっている。だが、このうち刀匠としての生き残りは鈴木国慶氏(本荘市)一人のみとなり、そして柴田果氏の長男柴田清太郎氏(羽後町西馬音内字本町)と県内でこの二人だけが文化庁から製作承認を受け、日本刀匠会に所属する刀工である。


父子相伝、昊の銘を刻む

 "関の孫六"で有名な岐阜県関市。このまちでは、観光に訪れる人々を刀鍛冶の家に案内し、古式にのっとり白装束に烏帽子をつけて刀を打つ場面を見せてくれるという。同じ工芸とはいい、陶芸や漆芸と違い、刀は完全に現実ばなれのした品だから、さもありなん。
 そのような先入観を抱いて会った柴田さんは、案に相違し、ルパシカ(ロシアの民族衣裳・昭和初期に芸術家の間に流行した)姿にパイプをくわえて現われた。ナチュラルにウェーブした白い長髪が、いかにもオールド文化人といった風貌で、初対面からいささか面くらったような次第である。
 着物のことを言ったら刀は心で打つもの。衣裳をまとわないと入魂できたいというのでは未熟さを証明しているようたものですヨと呵々(かか)大笑された。柴田さんの仕事着は西洋の大工さんが着るような前垂れつきのズボン。もつとも横座と先手(さきて)が向き合って交互に槌で打ち合うやり方は昔の話で、現在はモ一ターで動くスプリング・ハンマーがそれ以上の強い力で打ってくれるのだ。

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 明治三十九年八月生まれの六十九歳、西馬音内に代々続いた旧家の当主である。祖父養助氏は、ちょうど柴田さんが誕生した年から連続三十年間町長を勤めた人物で、養蚕の先覚者でもあり、父親の果こと政太郎氏また県議を勤めた名士である。
 この政太郎氏こそ当代きっての趣味人であり、かつ諸芸の達人であった。なかで有名なのは俳句・書・篆刻(てんこく)で、喜多流の謡と鼓、また盆踊りの太鼓から農具や工具の発明まで、往くとして不可はなく、柔道三段`剣道四段のおそれいった腕前である。俳号を紫陽花といい、碧梧桐の『三千里』の中にその交遊が綴られている。書は黄山谷の手本五百冊を中国から取寄せて模写・独習し、比田井天来の激賞を得ている。就中(なかんづく)、篆刻は秀れて、犬養毅は生涯彼の使つた印章を用い、木場中国で張学良に愛用されたともいわれる。

 〈三年かけて一芸を習得〉のモットーは、ついに作刀にまで及んだ。刀剣収集に趣味のあった祖父多助氏の影響を受けたのだが、単なる鑑賞だけにとどまらず、ついには刀銀冶を業とするにいたる。昭和九年、帝展出品の短刀が、二百点のうちの第二位に選ばれ、国宝調査委員によって買われたこともある。この時は、無名の地方作家ということで正宗十哲の一人、左文字の作に自分の銘を切った盗作だという中傷さわぎが起こったほどで、この事件の疑いが晴れると、かえって柴田果の名が高まった。
 柴田さんは、いわば父子相伝の刀工であり、号を昊(ごう)。字の感じが果に似かよっているうえ、かんかん照りの夏空という意味が熱鉄をイメージさせるからだという。


東都放浪の果ての求心

 その柴田さんも、青年時代には父のディレッタンチズムに、反逆し、一度は故郷を捨てようとしたことがある。今では父と同じ道に踏み込んでは、比較されて損をするという打算だったかも…と反省する清太郎さんだが、ともかく木荘中学時代は政太郎氏のやらなかったバイオリソと陸上競技に情熱を傾けた。
 が、運動のやり過ぎがたたって中学時代に肺患におかされ平塚へ転地してサナトリウム暮らし。一年ほどで軽快するが、そのまま家へは帰らず、中学の先輩小島健三が編集長をしていた博英社へ入り、娯楽雑誌『共楽』の編集に従事、のち新聞社などを転々し、山田耕筰率いる日響のメンバーに加わりバイオリソを弾いていたこともある。
 血は争えない。弾くだけではあきたらず、やがてバイオリンづくりに凝り、次は一転して三味線屋の小僧。これも父ゆずりで時計修理の技術を持つところから、金銀細工屋と組んで小さた事業をしたこともあった。自ら器用貧乏と言われるごとく、着ているルパシカも奥さんの手をわずらわさない自作というから、この人こそ正真正銘の作る人である。

 放浪の終息は昭和十二年。かねて〈名演奏といえども音楽は消えて形としては残らむい〉ことに不満だった柴田さんは、ずっしりとした実在感をもった美を、幼いころ曽祖父に見せられた刀剣の記憶の中に発見、父が元西の別荘に設けていた銀冶場へ一緒に出向いて、作刀を手伝うようになる。
 刀づくりは、教えることも教わることもできない。自分で考え、自分で創り出すものという柴田さんは、父の仕方を見よう見真似で作刀の技術を自らに叩き込んでいった。やがて太平洋戦争となり、柴田家は軍の指定工場として軍刀づくりに励む。金属類の供出で仕事にあぶれた県内の鍛冶屋たちが動員されて来て二十人ほど働く中で、柴田さんは立派に横座の役をつとめる刀工に育っていた。

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作刀五百振、玄人好みの作風

 敗戦後の占領下では、武器に類する一切がご法度となり、当然作刀など及びもつかなかつた。二十八年、この閉塞の中で父政太郎氏が逝く。
 だが、柴田さんには、大戦中に使い残した王鋼が山のように残された。そして、戦後何年かして刀の製作が解禁となると、その鋼塊の中から刀工柴田昊がよみがえった。
 柴田さんが今までに作つた刀は五百振にのぼる。その中の名品は作刀技術発表会や、新作名刀展などに出品され、また秋田大学の鉱山博物館には作刀のプロセスの展示とともに参考品として陳列されてある。
 柴田さんは、五カ伝のうち正宗などと同系統の相州伝の流れを汲む。どちらかといえば地味な、玄人好みの作風である。一振つくるに要する日数は一月。文化庁の許可も月一振、短刀は二振と制限してあるが、柴田さんの場合は短刀でも同じ手間をかける。
 まず玉鋼をクリ炭の炎土(ほど)にくべて融かし、打って平めた小片を積重ねてはさらに打ち伸ばしてゆく。この作業は二十回以上繰返えされるが、この鍛えによって異質な葵雑物が取除かれ、さらに鉄の粒子が均質につまって、弾力と強靱性をもった重さ一・五キロほどの刀身に仕上ってゆく。約一五キロの玉鋼が十分の一に減る、それほど丹念な仕事である。

 このあと鍛冶押し(荒研(よ)ぎ)して東京の研ぎ師に送り、やがて白鞘におさめられて、完成品となる。柴田さんの作った刀の値段は、一振り百二十万円から百五十万円(短刀なら七〇万〜一〇〇万円)というところが相場。しかし四〇万円がたは研ぎ師への支払いにまわる。
 が、骨とう界を流通する刀剣とは違い、現代人の刀がそう右から左に売れるものではない。まして戦後の農地改革で田地の大半を解放、いわば没落地主の柴田さんは、さいわい発明家でもあった父政太郎氏が特許を得て製作した箸製造機を使って会席箸を作るのを副業としている。名人肌のこの人の箸は好評で、全国にお得意さんがいる。京都の舞妓さんが、私のこしらえた箸で客をもてたしている場面を空想するだけで楽しいですよと、これはまた"武士の魂"を鍛える工匠とは思われないようた軟派な感懐だが、この人に言わせると、〈料理道にとって箸も一つの魂である〉ということになるようだ。

 広大な屋敷に、現在は夫人の奈佳(なか)さんとなった二人住まい。四人の息子さんは、広島大学の地質学教室、富士山麓の牧場、高崎市の国立コロニー、神奈川の機械会社と、皆故郷を離れて散りぢりに一人立ちしている。自分の青年時代を見る思いなしながら、このうちいつか、誰かが帰村してくれる日を夢みている。
 刀工を継いでくれることは期待していない。しかし、国の重文に指定されている名刀、古備前正恒(県内には国重文の刀剣は三振しかない)を守ってゆくぐらいの趣味は身につけていてほしいと、秘かに希ってはいるのだがー。