随想

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 ドンパン節のふる里
 藤田秀司
 (秋田県新生活協議会専務理事)

 秋田県は民謡王国といわれている。その中でも仙北地方は豊庫であった。
 テレビもラジオもなかった明治、大正の頃までは、民謡が生活の中に生きていて、作業も唄がけですすめ、お祝いに集まると祝いの唄をうたい合い、神社の祭典には「かけ唄まつり」が催された。即興的に唄で恋を語り、問答もできるほどであった。

 男 さても美くし この桜花 ならば 一枝 折てみたい
 女 折るにきたとて 折られぬわたし わしも主ある 花じゃもの

 作業衣をまとった農民の口から、万葉の恋うたのような美しい歌詞が次から次とほとばしるのである。こんな民謡的な風土の中で、いろいろな唄や歌詞が生まれ、多くの人々の支持を得ては栄え、またいつの間にか消えてゆく唄もあった。
 こうした中でとくに栄えたものの一つに「ドンパン節」をあげることができよう。

 おら山さ行かア 行かねえがでア わらびこ今 盛りだ 酒屋のほんとにええどこ ひとふくべっコ しょっかけて

 「ドンドンパンパンドンパンパン」と今では全国的に唄われているドンパン節は、仙北郡中仙町豊川の円満造という大工が好んで唄ったことにより、彼のつくった唄、ということになっていて、俗に「円満造甚句」ともいわれている。
 円満造というのは実は屋号で、この町のエマゾ屋敷に家をたててからそう呼ばれるようになった。本名は高橋市蔵といい、明治元年屋根職人、久助の長男として生まれ、昭和二十年七十八歳でこの世を去っている。
 市蔵は十三歳で、近くの豊川村八幡、長谷川源八大工の弟子となり、また境堀の喜助から彫刻の手ほどきを受け、十六歳で一人前になり、十九歳から宮大工として東北、東海道と広い範囲にわたって神杜、仏閣を建築してあるき、東北の左甚五郎とあだ名されるほど有名になった。彫刻師としての号を「橘一心(たちばなかずむね)」と称している。有名なものとしては中仙町豊川、北田家の内神諏訪神社、角館町白岩の雲巌寺山門と仁王像二体、中仙町長野法憧寺の力児のほか青森県黒石町保福寺に多くの名作を残している。
 市蔵は酒もタバコもやらなかったが、芸ごとは好きで、三味線もたしなみ、また唄もよくした。大工にはつきものの地固め、棟上げ建て上げ寺の祝いなど歌う機会も多かった。
 このリズミカルな民謡ドンパン節の元唄が、仙北で盛んに唄われた秋田甚句であることは、心ある人々には早くから知られていた。仙北では秋田甚句をサイサイともいい、甚句の踊りをサイサイ踊りと呼んで祭りの舞台をにぎわしたものである。しかし、秋田甚句の合いのてがどういう順序で変っていったのかはあまりはっきりしていない。
 今は亡くなられたこの道の研究家、奈良環之助先生は、先にあげた<ひとふくべこしょつかけて>の歌詞か秋田甚句から変ったといわれている仙北の「姉コ節」という唄と全く同じであること、姉コ節と、ドンパン節とに

 太郎助三太どっちゃ行った、臼のかげさかくれた、引きづり出して連れてあべ

 という地口が共通する点から、ドンパン節の源流は姉コ節であると力説されている。
 また田沢湖町の芸能研究家、田口秀吉氏は母が岩手県雫石町から出ていることもあって雫石地方の事情に詳しく、かつて南部雫石地方にあった「ドドサイ節」が源流かまたは大きな影響をあたえていると指摘している。

 恋しい小川のザクザク石は 波にゆられて岸による

 ドンドンサイサイドンサイサイとつくものである。

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 ドンパン節の元唄といわれているものを今もなお円満造(市蔵)の孫にあたる高橋大文さんが伝えているが、これはドンドンパンパンではなく、トウロウサイサイ チエサイサイ となっており、地口として例の「太郎助三太どっちゃ行った」が入っている。
 いずれ、トーロウとかチエ、というのは笛の音の表現であり、ドンドンパンパンというのは大鼓やつづみの音を表わしたものであろう。今歌われているドンパン節はその調子や音律も大文さんの元唄とはかなり違っているが、これは主として仙北民謡の妙手であった黒沢三一氏の改良によるものとされている。
 歌好きの人々は誰でも即興的に歌詞をつくりそれを歌いあげる才能も持ち合せていた。円満造の唄い上げたものとして伝えられているものも少なくない。

 雨降てくるよだ泊てゆけ もしかおこられたなら おれ行ていわけてけらしゃ そなことなど案じるな
 まだ起きねかでア夜が明けた 朝寝ばりしていたって 雀コ大根畑 みなほくじてしまておく

 いずれも相手に語りかける調子で組みたてられているのである。


 栗駒国定公園切手の誕生
 加賀谷長之
 (秋田郵趣会会員)


 栗駒国定公園の切手が、去る六月二十日に発行された。
 私たち切手愛好者は、本県にゆかりのものを「郷土の切手」というが、今度の切手は、二つの意味で、県内の各方面に反響をよんでいる。
 その一つは、秋田、岩手、宮城、山形の四県にまたがっている栗駒国定公園のうち、秋田側の風景が採用されたこと、他は、木地山こけしが描かれて、これに草をそえたということである(なお、同公園切手は、二種類発行され、他の一枚は、宮城県の鳴子峡と鳴子こけしを描く)。しかも、国定公園切手に民芸品が登場したのは初めてであるから、その意義も大きい。
 私たちは、決して他を排するわけではないが、郷土の切手が一枚でも多く発行されることを望み、それが、隣接県にまたがっている国立国定公園の場合は、本県側の景色が描かれることを、ただひたすらに願う。
 これまでに発行された郷土の切手は、十和田湖(発荷峠からみた風景)、秋田犬(いまも使用されている二円切手)、白瀬中尉(南極探険五十年記念)、秋田国体(鉄棒とボート競技を描く二種類)、八郎潟干拓(竣工式記念)、県鳥のヤマドリ(現行使用の八十円切手)がある。
 しかし、第二次十和田八幡平国立公園切手は、青森、岩手両県の風景、鳥海国定公園切手には、飛島からみた鳥海山が描かれるなどいずれも隣県側関係の図案であった。
 またイヌ年にちなみ、秋田犬の郷土がん具を年賀切手の図案に採用してもらうため、県でも強力に陳情されたようだが実現しなかった。そこへ、一昨年六月、日本万国博第二次記念切手(七円)に、かん灯が描かれたのであるから、私たちの喜びを察してほしいと思う。
 こうなると、たかが切手一枚に目の色を変えている愛好者など、いたって単純と思われるだろうが、趣味に生きる人間なんて、あんがい、こんなものなのではないだろうか。
 栗駒切手の図案は、皆瀬村の桁倉沼からみた初夏の栗駒山の遠望と、手前には、白もあざやかにコブシの花を配し、左側に木地山こけしを描いたグラビア印刷による四色刷りである。
 どちらかといえば、これまでの国定公園切手は、図案の季節感と発行時期のあわないものが多かったが、今度の切手はそのタイミングがよく、この点もうれしいことだ。

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 また、全体に青っぽい感じのところへ、木地山こけしの、くすんだ赤茶っぽい色がきわめてよく描きだされ、色調のバランスもとれており、最近の国定公園切手のなかでは、傑出したできばえと思う。
 ところで、発行が郵政省から正式に発表されたのは、五月八日である。しかし、その一カ月ほど前から、夏までに栗駒の切手がでることは、ほぼ間違いないという情報を得ていた。それで、間もなく正式の発表があるはずだ、そして、風景にそえて、必ずや木地山こけしが描かれることを確信し、五月七日の日曜、私は、初めて木地山へ行ってみた。
 湯沢からの定期バスが、途中までしか運行していないことを知らずにでかけたうかつさに苦笑しながら、三途川で下車させられる。小椋さんは、こけしの製作に余念がなかったが、次のように願って、色紙を描いてもらった。
 近く発行が予定されている栗駒の切手には、きっとあなたが作っている、このこけしが描かれると思う。私たち切手趣味の会では、絵入の記念封筒(初日カバー)を発行する計画をもっている。その図柄として前だれこけしの絵を刷りたい。
 こけしを求め、小椋さん宅をあとにしたのは、昼を少しまわったころであった。その日は、まばゆいばかりの快晴、帰りは木地山から小安の入口までの四キロを、歩くことにした。
 小椋さん宅の近く、切手に描かれた風景の桁倉沼のほとりの道路端で、横手駅から買ってきた駅弁の昼食をとる。ホコリをまきあげおい越していく自動車への便乗は頼まない。
 ぬけるような青空、そこへ残雪の頭をのぞかせている栗駒山。心の奥そこまで洗われるような、いいようのないうまい空気を胸いっばいに吸い、また、目だまが緑にそまってしまいそうな若緑を十分に満喫し、谷から聞こえるウグイスの声に負けんとばかり大声で歌っての二時間であった。そして、このような自然へ接するには、歩くことが何よりと感じ車のないしあわせを味わったのだった(もたざる者の、ひがみかな)。
 三千万枚発行される切手によって、国内はもとより、全世界へ紹介される栗駒と木地山こけし。それは、すばらしいことなのだが、むしろ、あまり宣伝や開発をせずに、そっとしておきたいような気持で、秋田へ帰った。
 この日の栗駒は、そんなにもすばらしい自然が、そこにあった。


 雪国のツバキをたずねて
 野添憲治
 (能代市文化財保護調査委員)


 ツバキはわたしたち日本人にとって、もっとも親しい植物の一つだが、北国の秋田でも四月から五月ごろに県内をまわると、どこに行ってもツバキの花を見ることができる。勝平得之さんの版画にも、花の咲いているツバキの枝を売りあるく農婦が描かれているが、それほど秋田の人たちとツバキとの交わりは深いのである。それは、ツバキは長い冬がようやく終わったころに咲くだけに、雪国の人たちに春を告げる木だからでもあろう。
 わたしがツバキに親しみを感ずるようになったのは、柳田国男の「雪国の春」を読んでからだった。柳田はこのなかで、雪国の海岸にポツンポツンと離れて自生しているツバキは、若狭の八百比丘尼に見られるように、廻国の伝道者の手で植えられたのではないかとか、渡り鳥がついばんで運んだことも考えられるなどの仮説をだしているが、波の荒れ狂う海辺に咲くツバキにひそんでいるロマンにわたしはすっかり魅せられてしまった。ぜひ一度、ツバキが自生しているところを自分の目で確かめてみたいというのが、わたしの永年の夢になっていた。
 ところが、ことし冬から春にかけて、秋田と青森の海岸に自生しているヤブツバキをたずねて歩く機会に恵まれた。いかにもロマンにあふれている自生のツバキを見て、わたしはいっそうツバキが好きになると同時に、遠い昔からツバキに寄せる日本人のせつないほどの愛着心も、理解できるように思われた。

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 最初にたずねたのは、象潟町の蚶満寺境内のツバキだった。ここのツバキはもちろん自生ではないが、秋田県ではいちばん早く咲くので、ぜひ見ておきたかった。暖冬異変の冬にしてはめずらしくぼた雪の降る一月末のことだったが、雪をかぶって咲いているツバキの花はみごとだった。ここのツバキは別名を夜泣きツバキともいい、何か大きな事件の起る前の晩には、ツバキがいっせいに夜泣きをするという伝説も伝わっているが、いかにも人間とツバキとの交わりの深さを知らせる伝説である。静かな境内をあるきながら、雪の降るなかに咲くツバキを見ているのは、実に楽しかった。
 四月初旬には、男鹿半島の能登山をたずねた。船川港から八キロほど半島に入ると椿港があり、その近くに能登山とよばれる小高い岩山があって、その山全体がツバキにおおわれていた。ツバキの咲く樹間をくぐって登ると椿港ののどかな風景が眼下にひろがり、いかにも春がきたという感じがして、胸がしめつけられるようだった。
 この能登山にも、能登の国の若者と土地の娘との悲恋の伝説が伝わっているが、どこのツバキの自生地に行っても、だいたい似たような内容の悲恋物語が伝わっている。地元の娘を恋した南国の若者が、約束した日になっても帰ってこないので、若者の船が難破したと思いこんだ娘は、海に身を投げて死んだ。その直後に若者は帰り、娘の死を知って悲しみ、娘への贈物として持ってきたツバキの実を、身投げした現場に蒔いた。それが育ってツバキの林になったというのだが、雪国のツバキと南の国との交流がうかがわれるほか、ツバキの花に悲恋を思った雪国の人の一種の情熱というものを感じさせられた。
 四月中句には日本海側の県境を越えて青森県に入り、岩崎駅に下車した。駅から五百メートルほど行くと丸山という小高い山があり、その岩肌にツバキが自生していた。丸山の中腹を五能線のトンネルがくぐり抜けているが、海から荒波をまともに受けるせいか、花は小さかった。
 丸山のツバキをたずねた後に、さらに八キロほど離れている艦作崎の椿島に行った。椿島との間は馬の背のような狭い岩で結ばれていて、ほんとうに島という感じだった。吹きつける荒波がまともに当たる南側の断崖絶壁の岩場に、へばりつくようにツバキが生えていたが、南の木であるツバキが、よりにもよってこんなひどい岩場に自生したことに、わたしはかぎりない興味をもった。
 百四十年ほど前に椿島をたずねている菅江真澄によると、ある冬の日に、食べ物に窮した男鹿半島の鹿たちが、海を渡ってきて椿島のツバキを食い荒らしたのですっかりなくなったが、ひこばえからまた成長したと書かれている。強風の直撃を受けるせいか、花そのものにあまり豊かさはないが、それがいかにも雪国の自生のツバキらしく思われた。
 五月上旬には、むつ湾にのびている夏泊半島の尖端にある椿山に行ったが、ここがほんとうのツバキの北限の自生地である。二つの小高い山には、一万数千本といわれるツバキが自生していたが、強風を受けることも少ないせいか、みごとな花を咲かせていた。ここのツバキの花は先端が白く枯れたようになっているのが特長で、イタリーのマッキー海岸にあるツバキと同じなので、マッキー型生態のツバキといわれている。
 こうしてわたしのヤブツバキの自生地めぐりは終わり、いまは写真や記録を整理しているところだが、ツバキの写真を見るたびに、来春もまたあるいてみたいという思いにかられている。