碑(いしぶみ)の周辺(第三十二回)

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生涯賭けた大日向作太郎
築港から迎えて六十周年
築港ゆかりの碑

 秋田港と船川港は、秋田湾地区新産業都市の比翼をなす海上の門戸で、ともに"日本海時代"の将来をになっている。この二港を結ぶ延長四〇キロの臨海ベルト地帯がつまり新産業都市区域で、さらにここは国の大規模工業開発の指定地区として、東北でただ二カ所、青森県のむつ小川原地区と並んで選ばれている。
 秋田港周辺に着々と完成を急ぐ化鉱コンビナートに対し、船川港周辺では四十五年秋から金川地区の海浜を埋め立てて木材コンビナート基地の建設が行なわれている。すでに十二社が操業を開始、この秋までには計画の十五社が全部出揃う予定になっている。
 船川港に入ってくる外洋材を使っての製材を中心に、フローリングなどの建材、チップや家庭燃料のオガライト製造などの工業集団で、ここに吸収された労働力は約二百人、加うるに従業員二百五十人の大手住宅産業の「永大」も隣接地に進出してきて、にわかに活況を呈している。
 いま、この埋め立て地の一角を小公園にしようという計画がすすめられている。そこは、昨年七月二十日に船川築港六十周年を記念する巨大な石碑の建てられた場所であり、ことしの春はとりあえず碑の周辺に、市職員と地区住民が、染井吉野四百本、八重桜百本の記念植樹をしている。
 こうした心の動きのなかに、男鹿市の人たちの"港"へ寄せるなみなみならぬ心情をくみとることができる。


明治には軍港案も

 歴史的には、土崎港といった時代からの秋田港が、藩庁のひざ元に近く西回り航路の主要な基地としてより早くひらけ、船川は単に雄物、米代の両大川の河口にひらけた土崎、あるいは能代港に出入りする船の錨地にすぎなかった。
 ようやく大船が出入りするようになったのは明治に入って工部省鉱山寮が、阿仁の産銅を船川から佐渡へ積み出すようになって以来のことである。
 船川港は古く避難港として、碇泊船のもっとも多かったときは汽船十一隻、総計一万六千トンを数えたといわれる。それというのも、西に本山、真山を背負い、北は寒風山を擁して西南に走る山脈をもった突岬となる男鹿半島の、内ふところとも、ノド笛ともいえる位置にあって、地形的には日本海有数の良港として折り紙がつけられていたからにほかならない。
 日露開戦がささやかれ出した当時は、彼国のウラジオ港に備えるために、海軍がここに軍港をつくろうと調査したが、湾内をかくす島がないこと、船川燈台の岬端が短いことのために沙汰止みになっている。その以前にも、海軍卿榎本武揚が船川港の視察にやってきており、結局は舞鶴に軍港ができて、船川は取残されてきたのであった。

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 船川港の発展を阻害してきたもう一つの原因は、港と結ぶ内陸交運の不備であった。工部省が銅を船川から積み出し得たのは、米代川をくだし、いったん陸路に出て、さらに八郎潟を船で運んだからである。


石田英吉が調査の一着

 船川港に近代的な照明をあてた最初の人は、四代県令石田英吉であった。明治十一年、かれは工部大学の教師ペリーの指導のもと、学生の仙石貢らをして船川、土崎の両港と八郎潟の実測調査を行ない、これをもとにいずれか最適の一港を定めて本格的な築港をすべく、こんどは政府に技師の派遣を要請したのである。
 明治十三年、政府のお雇い工師ドールンは<船川港は天然の形勝を占め申し分ないが、築港には巨額の工費を要し、さらに背部運輸の便を欠く。八郎湖の改修も工費の点から適当と認めがたいが、むしろ船越付近を改修して繋船場を設けるのは、経費も安く、通商のためには有利である。
 さらに雄物、米代の二川に運河を開さくしてこれを八郎湖に結べば、県南、県北の連絡も容易で、成功しがたい土崎河口の改修の要もなし一挙両得であろう>という結論を出している。
 八郎潟開港論は、つとに初代県令島義勇の気宇壮大なアイデアであり、しかし実現には難があった。
 こうして船川、土崎のいずれとも軍配をあげ得ぬままに時日を経過していたが、ここに《船川築港策》をかかげて県政界に乗り出してきた一人の巨人がある。大日向佐太郎であった。
 かれは、船川の港とは地縁も人縁もない、雄勝の山奥、明治村堀内(現羽後町)の出身でありながら、ほとんど一生涯を船川築港のために捧げ、その青春の情熱とともに最後には産をも投げ尽した偉大なる先駆者であった。


"黒施風"作太郎

 羽後町の八反田公園には、赤星監城の筆で刻まれた高さ丈余の<大日向作太郎氏碑>がある。かれの死後、昭和十年五月にその功をしのぶ地域民の寄金によって建てられたもので、碑の裏面には先年物故した歌人佐々木順(元雄物川町長)の撰文によって、きわめて長文の業績書も刻まれている。
 大日向氏の祖は九州延岡(日向国)の城主祝子(はふり)氏といわれる。別府の望月氏に破れたのち海路を本県の由利に流落し、立石峠を越えて勝雄に至り堀内を安住の地とした。地名は"はふりうじ"から起る。はじめ藤原を名乗り、明治の平民称氏で生国にちなむ大日向(初めはオオヒョウガと呼んだ)と称した。
 作太郎は桜田門外に井伊大老が討たれた万延元年の元旦に生を受けている。十六歳の年父理伯が死んだとき、かれが継いだものは、二十町歩の田地と百余町の山林であった。
 身辺に政客が多く。とくに県会創設時から県議をしていた姉の夫長谷山荘助の後継者として運命づけられていたといっていいかもしれない。そのかれに欠けるものは、満二十五歳という被選挙権までの年齢のみであった。
 しかし、その時期をかれは、決して拱手して待っていたのではない。商用にかこつけ、北海道の開拓地や沿岸漁業を視察して、抱負をたくわえていた。
 そしてかれは、他県に比し秋田県が交通の面でもっとも遅れていることを痛感したのであるる。 "船川築港"の壮大なプランは、この時点ですでに胚胎していたといえる。
 明治二十一年十二月、知事不信任案から県会解散となり、翌年四月の選挙で作太郎は県会に初の議席を占めることになった。一年生議員ながら、道路問題などでの発言するなど、注目される存在であった。かれは四十九年九月まで十九年間県議をつとめたが、三十五年には議長に就任している。議長時代のらつ腕ぶりは知られ「黒旋風」と異名をたてまつられた。


土崎港と先陣を争う

 船川築港については、初当選の翌年早くも「船川港湾水面埋立て」の申請を出している。学術上は、内務省の工藤博士や軍港調査にあたった海軍省水路部長の肝付大佐の指導をあおいでいた。
 二十五年、県会は満場一致で船川港測量費の計上を決め、次の年には"背後通運"として不可決な船川鉄道(現国鉄男鹿線)案をも可決した。
 夢が一歩実現に近づいた作太郎は、二十八年に三十八人の連名を得て五五万平方メートルの海面埋立てと二六〇〇メートルに及ぶ護岸石垣の建設について内務省の認可を得て出願、三十年には四千余名を会員に、近衛篤麿貴院議長や岩崎三菱社長を賛助員として船川築港期成同盟会を結成、その委員長となった。
 二十年測量・概算設計が着手され、三十三年に調査が完了する。ところが、着工を日前にして日露戦争が起り、財政上から築港は棚上げとなった。四十一年、あらためて設計がしなおされた。
 このように、大日向作太郎によって火をつけられた船川築港問題は、明治・大正期における県政五大問題のなかでも、雄物川改修とならぶ最大の難題であった。したがって、すべての事が順風のうちに運ばれたわけではなかった。

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 その象徴的な事件は土崎築港との先陣争いであった。代議士近江谷栄次を中心に起った土崎築港運動によって県論は二分された。土崎派は「秋田日々新聞」を発刊して、ついには<作太郎の船川築港論は私利をはかるもの>というひぼう記事を掲げるにいたる。
 もっとも歴史ある秋田魁新報社内でも、県会議長時代に船川築港のために奔走したことのある井上広居社長や河村寅之助理事の船川説に対し、原敬のふところ刀とまでいわれた策士の榊田清兵衛理事が土崎説を応援して、中村木公主筆や安藤和風が土崎側に加坦、社論が二分する大騒動となった。
 この時は県会が「土崎優先」をきめたが、のち船川、土崎ともに重要港湾の指定をうけ、不離一体の秋田湾港として並行して築港がなされることに落着したのである。


昭和六年遂に完成

 工事は明治四十四年六月に着手され、昭和六年にほぼ現在規模の大要が完成した。
 功労老大日向作太郎は、この着工の実現をみることなく、四十年九月をもって政界を去っていた。船川築港一筋に政治生命をかけた結果、生家の産はおおかた尽くされ、それに鉱山事業などの失敗で再び県政の表面に出ることはなかった。
 晩年不遇のなかに心蔵病でたおれ、大正三年、船川港の第一期工事完成の報せを湯沢の別邸の病床で聞いた。そして、それを唯一の冥土への土産とするかのように、同年十月二十三日、五十五歳の生涯を終わる。
 現在の船川港は、従来の三千トン岸壁に接続する新たな七千トン岸壁を有し、年間貨物取扱い量が一八○万トンに及ぶ近代港として、とくに対岸貿易に明るい未来をもって発展し続けている。


育ての親中川重春

 大日向作太郎を船川港生みの親とすれば、もう一人忘れてならない功労者に、育ての親ともいうべき中川重春がある。
 湾に沿って弧を描く男鹿街道を男鹿市に向って、金川のコンビナートを左に眺めながら行くと、市街地にさしかかったところに男鹿市役所がある。廊下でつないだ別棟が市議会で、その玄関わきに、海に向って中川重春の胸像が建てられている。
 三十六年六月、中川重春先生顕彰会(会長は当時の佐藤俊雄市長)の手によって建てられたもので、佐々木素雲の作。みかけ石の台座にはめられた額は、当時首相だった岸信介の書である。
 中川重春は、明治二十三年六月に船川港で生まれた。生家は佐竹の旧家だが、そのころは回漕業と土建業を営んでいた。秋田中学から早稲田大学政経科に学んで、ちょうど築港工事の始まった明治四十四年の九月に卒業している。
 したがって、築港問題で動揺する世論のしぶきを浴びながら多感の時代を送って成長した、いわば港の申し子であった。卒業後樺太庁に嘱託として勤務したのも、そして港の男の進取の気性のあらわれとみていい。
 大正元年暮れ、帰郷して家業に従う。その時から築港と海運が日常の生活に密着した。先見の明のあったかれは、対岸シベリアとの航路開設を早くから唱えて、妻をともない、シベリアから北満の地を視察旅行におとずれている。
 そして、持論の実現には政界に入って自ら推進するのほかなしという見地に立ち、大正八年郡会議員、同十二年県会議員となって三期十二年間在任。そして昭和十二年二月の総選挙に民政党から立ってみごと初当選を果たした。
 翌年、万国議員会議代表として欧米を旅行、海運問題について見聞を広めている。
 昭和二年、かれはすでに十余隻の船をもって中川汽船を創立し、その経営を通して船川港の発展につくしていたのである。かたわら十年間にわたって船川町長をも兼務した。
 戦後は逓信政務次官をつとめ代議士を辞めたのちは、二十九年男鹿市の初代市長となって二期つとめた。
 水難救助、漁港振興にも功績があり藍綬褒賞も受けている。三十八年十一月五日没。