ふるさと散歩

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仙岩峠(田沢湖―雫石) 奥羽山脈くり抜いて
新動脈ただいま開発

 長い連休あけのこの日は、きらめくような五月の太陽がふりそそいでいた。
 早くもしろかきの見える平野部から田沢湖線に乗換えると、わずかではあったが早春に戻った感じがする。
 サクラは散ったが、重たい花びらをつけた八重ザクラは今がさかり。ひときわ濃いピンクの色が、ようやく吹き出した木々の淡いみどりと鮮やかな対象を見せる。
 ミズバショウで知られた刺巻駅向いの湿原地帯も、ようやく白い芽を出したばかり。高原列車の車内は、久しぶりに顔を合せた勤人が多いためか早朝から話が弾んでいた。
 春スキーが終り、山と湖で賑わうにはまだ早い田沢湖駅だが連休に組みこんだ旅のスケジュールがまだ消化できないのか、それとわかるジーパンにリュックの若者たちでいっときにぎわう。やがて三々五々、バスターミナルに足早に去った後は、初夏の太陽だけがやけに明るい素顔の田舎町にかえった。


東北の屋根を越える

 駅前に立つと、駒ケ岳にはまだくっきりと残雪が映える。その左手に赤茶けた岩肌のあたりは県境に向う国道四六号線。かっては秋田街道(南部街道とも)いわれた峠に通じる道だ。
 左手一帯の残雪の見える山なみは東北の屋根奥羽山脈、そのひときわ高い辺りを土地の人たちは"朝日モッコ"と呼ぶ。
 町役場のすぐそばから右にそれると四六号線だ。ただし四六号線と名付けられたのはごく最近から。それまでは地図上の道路でしかなかった。二級国道として指定されたのは昭和二十八年から。三十二年には仙岩峠のかべを突き破る工事が岩手、秋田の両県側から同時に着工され、七年の歳月と約十五億円、延べ二十万人の手によって自動車道になったのは三十八年の七月から。それまでは"幻の道路"にすぎなかった。
 砂利だらけの道路はほこりがひどい。窓を閉めると車内の気温がいっきにあがる。峠にかかるまでの平担部には八重ザクラが咲きこぼれるように満開だ。峠の開通を記念して町の老人クラブの人たちが植え付けたものだという。
 ほこりの立つ未舗装の国道だが俗化の波は大自然の中にまで押しよせている。ドライブインはまだしも、原生林の中にまでモーテルが進出、カラートタンの屋根がいかにも目ざわりだ。
 大きく蛇行したあたりから登りにかかる。ようやく芽吹いた木立のなかにそこだけパッとピンクの粉を空中に撒いたように浮き立って見えるのが山ザクラ。濃い色はベニヤマザクラ。雪を溶かした威勢のいい清流、まだここには早春と汚れない大自然があった。
 六枚沢の辺りまで登ってフト昔を思い出した。十五、六年も前であったろうか。山の仲間と国見経由で駒ケ岳登山を試みた。最短コースは線路であった。田沢湖駅から線路を進み、生保内川のとっつきの鉄橋の下が昼食の場所であった。水筒に水を詰めたのも川水であったと思う。旧道を通って国見峠を越え、国見温泉までの路は遠くきびしく苦しかった。


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生々しい豪雪の爪跡

 めまぐるしく蛇行して車はあえぐ。登るにつれて豪雪の爪跡が生々しい。太いガードレールは飴細工のようによじれ、岩に張りつけたコンクリートの壁がいたるところはがされ、自然の猛威と峠道の峻険さがひしひしと迫る。
 当時、土木工学の粋を集めた通路開発も、開通以来くり返す自然との闘いであった。毎年降雪期の十一月から半年以上は交通途絶、太平洋岸と日本海岸を結ぶ数少ない横断道路としての役割も大きくそ害されてきた。このためもあって四六号線の改良工事は秋田、岩手両県が強い促進運動を展開、四十三年から新ルートの調査を進め、四十五年九月仙岩道路の起工式を行ない五年計画で新ルートによる開発工事が進められている。
 ところで、新しい道路計画にふれる前に、まず古い峠の道を急いでみたい。
 田沢湖から町並、それに生保内川が一望に見えるあたりをだれが名付けたか「湖山望」という。眺めが雄大で、空気が山の冷気を含んでひんやりと甘い。
 この雄大で大自然の恩恵につつまれた場所にいつのころからか「峠の茶屋」が店開きした。大きさ一坪たらず、崖の突端につき出るように建てられていたが、名物の山菜そばはうまかった。そのほかおでん、飲物など茶屋の前はちょっとした広場になっていて車を止めて一休みするドライバーの姿が見られた。
 ここから県境の「ヒヤ潟」までは十分たらずで着く。海抜八三六メートルの県境はまだ冬の気配が濃く若葉も開かない。そこここに残雪の光る一ヘクタールばかりの沼は鉛色に濁っていたが、目の前に駒ケ岳が迫り、ダケカンバの白い木肌が色どりを添えていた。
 仙岩峠はここから東北に一キロ余り。東北電力仙岩待避所の横からササやぶをかきわけ、木の板につかまりながら八百メートルクラスの陵線を進み、貝吹岳のふもとの小さな台地に「従是西南秋田領」と刻んだ古い石標がある。かって東西の交流が行なわれ、国見峠を越えて秋田にいたる峠の名残りである。
 国見と呼ぶ峠は全国に数多いが、これは国境という意味であろう。この峠はむかし「生保内峠」とも「遠保内峠」とも呼ばれた。文政十二年(一八二九)この峠を越えた藤原衆秀(もろひで)はその著<まかせ>の中で「この峠にはアブがいて修行者をさし殺したが今はいなくなったので(あぶない)。また岩石が多く山がけわしいので(あぶない)からなまったものでないか」と書いている。


貞任討伐に義家が通る

 仙岩峠と呼ばれるようになったのは新道が出来た明治以降のことで、この命名者は明治九年にこの峠を越えた時の内務卿大久保利通だという説もある。
 現在地図の上では、県境に添うてヒヤ潟から東一キロの地点を仙岩峠、北一キロの地点が国見峠と記入されているが、土地の人たちは両方を合せて時には仙岩峠、時には国見峠とも呼んでいるようだ。
 国見峠が歴史に登場したのはかなり昔から。町の旧家に伝わる記録によれば前九年の役に源義家が、南部厨川に布陣した安倍貞任討伐のため金沢の柵を出発、近道を通るため生保内の住人小太郎を道案内にして国見峠を越えて南部に攻め入ったと伝えられている。
 文化二年に峠の上に「従是北東盛岡領」、数十メートル離れて「…秋田領」と両藩でそれぞれ国境を明示した石標が建てられた。
 藩政時代に入って秋田街道は主として、幕府から派遣される「御馬買衆」と「御巡見使」通行のため整備された。
 徳川幕府は軍馬購入のため、毎年九月ごろ南部に役人を派遣し、宮城から秋田に入り、横手―角館―国見峠を越えて盛岡にはいった。
 雫石には専用の御仮屋をつくり、家老が出迎えて接待するほど。ある年の記録によれば一行の人数は五十人におよんだという。軍馬の購入は例年二百頭前後で十一月には奥羽街道を経て江戸に帰ったという。馬買は寛永二年(一六二五)から元禄四年(一六九二)までつづけられた。
 「御巡見使」は、江戸幕府が地方民情と諸大名の動静をさぐるための目付役で一行の入数は三十五名、将軍の代替りごとに派遣されるのが例となっていた。ただし東北地方には家光以来九回しか来ていない。

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 巡見使の来訪には無益な失費をしないようにとされていたが実際はその反対で、接待や道路改修に藩の財政負担は大きく、住民もまた伝馬や労働を提供しなければならなかった。
 天保年間に発行の絵図によれば、盛岡城下から生保内までは十二里半(五〇キロ)、久保田城下まで二十九里(一一八キロ)、三泊四日の行程であった。


物資交流ただ一つの道

 いっぽう庶民の暮らしでは、藩政時代から大正初めまで仙岩峠は南部、秋田が食糧交換するただ一つのルートであった。
 峠にある両県境めざして、夏場だけでも生保内に駄賃つけ人夫五十人、馬五十頭。冬でも二十人前後が常駐して運搬に万全を期したといわれる。人夫賃は一人一日米三斗、今の金に換算して平均五、六千円を稼いだため生保内衆は生活が豊かであったという。
 峠の物資交流の最もさかんだったのは享保年間のころで、一日千駄(馬一千頭)、一駄四十貫といわれるから十五万キロの往来があったことになる。
 南部側からは塩サメ、塩サケなど海産物が多く、秋田側からはカバ細工や曲ワッパ、米、砂糖、つくだ煮、清酒などであったが、当時各藩で領内産の移出を取締っていたので、佐竹藩では焼餅五合、昼食一人前以外の携行を許さない時代もあった。


橋とトンネルの新ルート

 しかし明治三十八年奥羽本線の開通にともない、人や荷物の交通が少なくなり、花輪、横黒(今の北上)線が開かれて道の修理もゆきとどかず、仙岩峠は地図の上だけの道路となった。
 四六号線の開通は先に述べたとおりであったが、豪雪のため半年は休業、合せて雨季にはがけくずれの連続で、その改善が強く要望されたが、いま新ルートによる仙岩道路開発事業が力強く進められている。
 新道路は田沢湖町から岩手県橋場までの現道路二十二キロを、トンネルと橋で結んで十六・三キロに短縮するための難工事。現在駒ケ岳の中腹を縫うように蛇行した山岳道路を、生保内川に沿って谷間を通り、標高も最も高いところで五七二メートル。県境近くまで鉄道と並行し鉄橋のつきたあたりから奥羽山脈の中腹を突き破るという大工事である。
 このため中心となる仙岩トンネル(二・五二二キロ)をはじめトンネルの数が九つ、その延長五キロにおよぶほか、橋の数十九その延長一・九キロと、文字どおり峻険な谷間をトンネルと橋で結び合せる大事業である。
 工事は四十六年から五十年まで、総工費には約百億がみこまれているが、地質は「生保内層」といわれる混合層のため、層の変化が激しく作業には危険が多いという。
 それでも、秋田、岩手側両方同時にはじめられ、工事は順調に進んでいる。湖山トンネル(二三六メートル)はじめ生保内トンネル(五八○メートル)、橋を含めた道路改良一キロと、工事は予定どおり進められている。
 最大の難所仙岩トンネルの中心部は奇(く)しくも県境仙岩峠の真下。「歴史的な大工事の最後の貫通の場は、出来れば峠の真下を選びたい」とは工事関係者のことば。
 仙岩峠のあたりは、ようやく芽吹いたブナの若葉と杉の木立が、緑の徴妙な階調を見せて全く日本画の世界。麓から若いウグイスのさえずりが遅い春を告げていた。

(仙岩峠・国見峠については最上源之助著「仙岩峠物語」太田雄治著「秋田たべもの民俗誌」を参照した)