碑の周辺(第31回)

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"八幡平"を天下に紹介
杉村楚人冠を関直右衛門
楚人冠落馬記念碑(八幡平トコロ温泉)

 ことしの暖冬異変は、例年より四十日も早く八幡平へ定期バスを運んだ。三月十八日土曜日の朝、花輪を発った第一便の乗客はまばらだったが、樹氷を縫うスキーツアーに連休を過ごそうという若人たちのはずんだ声に、車内は陽気だった。
 三メートルもある雪の壁のあいだをすり抜けるように、大沼まで。こうして北国の春の観光シーズンの幕は開かれていった。
 八幡平は変化に富む火山景観と高山植物とで知られている。一昨年から樹海ラインが頂上を通って盛岡と結び、観光客の数もうなぎのぼりにふえている。が、海抜一、六一四メートルの主峯からしてなだらかた群山のふところは広大で、容易に俗化を寄せつけたい、それこそ未来をもった観光地である。
 なにしろ開発の歴史がまだ新しい。ごく親しい人によって湯治場への通い路が開かれたのさえ、近々百年か百五十年のことである。馬の背に寝具や鍋釜、それに食糧を積んでけものの道を踏みしだいた道であった。


開発の三先覚

 八幡平が人々の関心を集めだしたのは、明治三十九年、たまたま蒸の湯に湯治していた郷土史家の宮城佐次郎(学校長のち尾去沢町長・「花輪町史」の著者)が付近を踏査して、その自然の持つ美と学術的な興味とを文筆で天下に紹介してからといわれている。
 蒸の湯は明治二十年代、阿部藤右衛門が開いたものだが、孫の藤吉が後年宮川村長として八幡平の観光宣伝に力をいれた。金勢大明神をまつり"子宝湯"と称するなど、特異な霊験をもつ桃源境の湯治場として名前を売る。
 銭川温泉はもっとも古く、トロコ温泉も明治初年には開けている。玉川温泉はもと鹿湯(酸か湯の託り)といい、湯瀬ホテルの創始者関直右衛門(五代)が湯花採取を兼ねて開発したものである。
 後発の玉川がもっとも盛んになり、戦後、ここまでジープで行けるようになった。それというのも関氏が戦前五万円(今なら何千万円だろう)を県に寄付した賜物で、八幡平に道路を通すなど"痴人の夢"といわれながら、ついに二十六年には定期、ハスが運行されるにいたる。
 二十七年、"スキーの宮様"高松宮が蒸の湯に二泊され、この時のお宿に「くまげら山荘」と名づけられた。
 昭和十一年、十和田湖が国立公園にたったとき八幡平も侯補にあげられた。何度か調査が行なわれながら棚ざらしになっていたところ、二十九年七月、やっと国定公園と決定、さらに三十一年七月、十和田湖へ編入されて国立公園となる。
 この記念式で、八幡平の開発につくした三人の故人にあらためて感謝状がおくられた。阿部藤助、関直右衛門と、もう一人は登山者の案内をいつでも無料でかって出た地元の小学校長大槻恵蔵である。
 三十七年トロコ―蒸の湯間の八キロに、初めて県営の有料道路が敷かれ、以来急速に開発が進んで、盛岡とも田沢湖とも自動車路で結ばれたのである。


名文記者、楚人冠

 八幡平観光宣伝といえば、記念すべき大恩人として杉村楚人冠を忘れることができたい。テレビなどのなかった時代には、有名人の書いた旅行記が宣伝上に大きな役割りを果たしていたことは申すまでもたいだろう。天下の《アサヒグラフ》に、まして馬場恒吾(評論家・元読売新聞社長)をして〈新聞記者で名文家は結城礼一郎(国民新聞社会部長)と杉村楚人冠の二人で、ことに随筆・旅行記では楚人冠に匹敵する者なし〉とまで言わしめた、その人の長文の紀行文が何度も掲載されたのだから、世間が耳なれないこの地名に注目したのは当然のことであった。
 それというのも、落馬が縁である。左の二の腕を骨折し、そのあと一週間も湯瀬ホテルに足止めをくらった楚人冠先生にはまことに気の毒な事件ではあったが……。

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 昭和九年七月十二日、湯瀬で東北三県朝日会(販売店主会議)が開かれた。本社からは石井光次郎営業局長(のち衆議院議長)と木村通信部長が出席したが、前年湯瀬を訪れて八幡平の景勝について聞かされていた楚人冠も、この機会に登山をこころみるつもりで同行した。
 当時の楚人冠は、記事審査部長・論説委員も退いて、監査役として気ままにペンをとっていた時代である。


落馬骨折の記

 会議のすんだ翌十三日、関直右衛はじめ阿部貞吉村長、黒柳恒吉花輪営林署長らが案内をつとめ、一行の八幡平行となる。車で坂比平まで行き、そこから八頭の馬に分乗してトロコ温泉に着いた。ミズ料理の野趣に舌づつみをうちながら昼食をとりさて蒸の湯を目ざして再び馬上の人となった。
 石井、木村の両氏は、はじめここから下山し十和田湖をまわって帰京の予定だった。いったん別れを交わして先発した楚人冠は、ほどたく木村部長の声に呼び止められた。思い直し二人も登山することにしたという。
 心強さをおぼえた楚人冠は、思わず「バソザイ」と叫び、馬をおりようとした。その瞬間、馬が動いたらしい。ぐらりと背をすべってからだが傾き、右足のゴルフ靴のイボがあぶみに深くはまって宙に吊り下げられたかっこうになった。右手をのばし、やっと足をはずしたところで、どしんと落ちたのである。
 そこはさいわい、深い草の上だった。本人はさして痛みを感じたかったらしいが、うしろにいた馬子が「ボキッ」とにぶい音をきき、洋服から骨が突き出たのを目撃している。それでも本人は、はじめ骨折には半信半疑だったようだ。
 石井光次郎は柔道三段で、若いころ神戸で接骨医の家に下宿したこともあって、応急乎当は手なれたものだった。金剛杖を副木に、馬子の豆しぽりの手拭で腕をしばり、戸板の上の人となって下山する。
 永田の部落に、八代も続いたセガリ(民間の接骨師)がいて、七代目の老人が名人といわれて健在だった。その老人の治療を受けて、その夜は谷内の阿部村長の家へ一泊、翌日から一週間再びホテルの客となった。
 腕が不自由ただけで、口もハラも丈夫だから、押しかける見舞い客を相手に、時節はずれのキリタソポを振舞うやら、馬食会と称して、馬肉はおろか土地の人もめったに食わない馬の肝を五分厚にきって塩焼きにした料理を食べるやら、八幡平での奇禍をかえって楽しい温泉遊山にした。
 楚人冠は、千葉県我孫子の手賀沼湖畔にある自宅(白馬城と称し枯淡庵と名づけていた)に帰ってからも、二週間ほど例の永田のセガリ老を呼び寄せて予後の大事をとっている。
 以上の経過は、楚人冠自身の筆になる「落馬記」(昭和十一年刊『と見こう見』所収)による。


鹿角の人情を愛す

 楚人冠のこの文章が《アサヒグラフ》九月五日号に出て"八幡平"が急に知られるようになったことは、その翌年、関直右衛門や阿部村長らが提唱し、トロコ温泉の例の地に「楚人冠落馬記念碑」を建てようとした動きからほぼ想像がつく。
 歴史上の武将の故事にちなむのならばともかく、馬にはしろうとの一文人が馬から落ちたこはさしたる珍事でもあるまい。しかも落馬という名誉ならざることを記念する碑というのだから、企画したほうにもよくよくの理由があったろうし、いっぽうそれをあえて承諾した楚人冠の器量もまた見あげるべきであろう。
 碑の計画ができる前、二月に楚人冠は"報謝行"として湯瀬を訪れ、骨折のおりに床辺をにぎわしてくれた人たちと旧交をあたためている。
 そして「湯瀬の松風」と題して一詩をものしている。
  湯瀬の名に負う瀬々の湯の米代川に立つ烟(けむ)り
  熱い思いはななかまどとざして胸にひめ小松
  さあらぬ逢瀬幾かさ松のいつしかそれと通い松風
 のち歌沢芝松によって作曲されてレコードに吹込まれ、藤蔭静枝が踊りを振付けている。
 またこの時は花輪の市日を見物して、そこで馬二、三頭が引き出されて無雑作に売買されていたことに卒直に驚き、かつては鉱石を見木に鉱山の売買まで市日でたされていた話を、酒脱な筆にのせて紹介している。


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我は行く荒草裏

 よくよく秋田の、鹿角の人の人情にひかれたもののようだ。
 そこで落馬記念碑の件も、あっさり承諾した。
 なにか一句を、という揮毫の注文に、俳句は苦手だからと書いて送ったのが『禅林類聚』の中の
 〈我は行く荒草裏、汝は又深林に入る〉(碑文は漢文)
 の一句である。
 楚人冠は〈…本当の意味はよく知らないが、情景に似つかわしいような気がして…〉と言っている。余談だが、千葉県我孫子の筑波山を望む楚人冠公園には〈草の上にまろべば天の高さかな〉という句碑があるそうで、なんとはなし八幡平での落馬の一件が気にかかるような句でもある。
 除幕式は一周年のあとの八月のある日、楚人冠を迎えて行なわれた。そして、この時に念願の八幡平登山もかない、三日の行程で蒸の湯から頂上をきわめ後生掛から焼山越えをし、さらに玉川温泉まで踏破?した。
 帰京後ただちに「八幡平再挙」の一文が〈アサヒグラフ〉に登場したことはいうまでもない。蒸の湯のオンドル式温泉浴がよほど気にいったものらしく"天下の珍湯"として紹介されている。


道路工事で移転

 記念碑は、落馬地点から数歩とへだてない場所に建てられた。高さ一メートル八○、幅八四センチの地元産の自然石で、トロコ温泉のすこし手前、昔そこから後生掛蒸の湯へ登山した分岐点にあって、つい先年まではかたわらに売店があった。
 バス停もあって「記念碑前」という。しかし、今はバイパスがここを起点につくられることになり(自衛隊の手で仮さくが成り、今春から本工事)一記念碑は土台を新しく石で畳んで移転されている。
 漢文で二行、そして「昭和十年夏楚人冠書」とだけある碑に果たして観光客の何人がこれに感慨を寄せるだろうか。本家本元の朝日新聞の入社試験でさえ「杉村楚人冠について記せ」という出題に「鎌倉時代の画家」とか、あるいは字づらからの連想であろう「支那の海賊」という珍解答があったというぐらいだから――。


不死鳥の如き実業人

 だが、楚人冠をこうまで八幡平へ結びつけた功績は関直右衛門のものである。
 関家はもと村木姓で武家であった。伊兵衛の代にさむらいを嫌って鍛冶屋になり、のち南部藩の武士関直左衛門の名跡を買って湯瀬に落着いた。三代目から直右衛門と改名し、旅籠屋のかたわら造材の請負いを業としていた。
 中興の五代目は幼名を鶴蔵といい明治六年に生まれている。十二年、六歳のとき三、四代の事業の失敗で財産整理の憂き目にあった。十七歳のとき本家筋の村木伊兵衛の養子となって酒造にたずさわるが、二年ほどで離縁となり、のち南部馬の本場岩手県二戸郡で軍馬補充所の土木工事や馬糧供給の請負いで独立した。
 その縁故で三十四年渡道、同じ事業をやったが軍よりの下げ金五千円を持ち逃げされる事件にあって人夫賃を払えず函館へ逃げた。転々と窮乏のドン底生活を経験する。
 三十六年、羊蹄山麓での造材事業に成功し、のち札幌に居を構えて、遠く樺太から沿海州にいたるまで事業の手をのばした。また勇払郡鵡州に関農場を開いた。のちここの農場を百三十五人の小作人に解放、また各地の神社に寄進するなど、人を愛し神を敬う心の人として尊敬を集めた。
 昭和四年、鹿湯に湯治して薬効を知る。木材の事業は子どもらにゆずり、郷里での温泉開発に新たな生命を賭けようと決意し、七年に鹿湯の権利を買ったほか、湯瀬ホテルの第一期工事(木造二階、現在の本館東館)に取りかかった。"湯瀬一番の旅館"というのは、亡き母の存命中の夢でもあった。
 十四年、湯瀬産業合資会社をおこして「ユゼ洗粉」を売出す。十五年、満州旅行中に電報で宮川村長就任の要請を受けて承諾、就任すると私財をもって役場職員の給与を上げて村政務を督励した。
 十七年五月二十七日、来湯した内相平沼験一郎を花輪駅まで見送って帰る途中、脳溢血に襲われた。翌十八年九月二十七日脳軟化症のため長逝。高献院大心直伝居士。
 四男四女あり三男三郎は母方の小林を継いで洋画家、四男四郎は元盛岡鉄道管理局長で夫人は寺田寅彦の二女弥生。八幡平村長だった関孝三氏は令孫の婿である。