この道ひとすじ(第22回)

[PDFファイルを表示]


若者しのぐ長距離走者   〜秋田市手形新町 威知義曜(たけちよしてる)さん〜

情緒派の建築家

 とにかく多才な人だ。建築家としては日本建築学会々員、一級建築士、一級展示設計士、威知住宅社長であり秋田工学校教諭、県立農業大学園講師。画家としては元旺玄会員、一線美術会無鑑査、独立展、二科展の常連で、美術評論家としても一家をなし、東方美術会を主宰して子弟の教育にあたっている。
 この異常とも見えるバイタリティーに富んだ主人公威知義曜(たけちよしてる)さん(59)を秋田市手形新町の自宅を訪ねて体力づくりの秘決をうかがってみる。
 専門の建築関係と趣味の美術関係の書籍で埋まった応接室。アトリエも兼ねているとみえて室内いっぱいに描きかけの絵が立てかけてある。
 小柄だが精悼。日焼けした皮膚。若者のようたバネの効いた動作は年齢を忘れさせる。
 数代続いた手形っ子。明徳小学校に入ったが、とり立てて"馳ケッコ"の早い生徒ではなかった。

 陸上競技に引っ張り出されたが、いつでも控えの万年補欠。卒業するまで他校との対抗競技にいっぺんも出場の機会は与えられたかった。
 県立秋田工業学校の建築科に進んで、柔道部に入部した、小柄だがバネの効いた威知少年の柔道はメキメキ腕をあげた。二年生のとき講道館から一段の称号が与えられ、現在三段。当時県内でも珍らしい若い有段者であった。
 美を追求する心は建築を学んでいっそう開眼された。本格的に絵筆をとりはじめたのもこのころであった。
 陸上競技の中距離走者としてグラウンドに立ったのは昭和八年、工業高校を卒業して明徳青年団に入団してからであった。
 当時明治神宮大会を目ざした青年たちの陸上競技熱は、今の国体の比でなかった。"富国強兵"がその背景にあったからであろうか。
全市の駅伝競走に初出場。、威知選手の新記録で明徳青年団が勝利をおさめた。

 陸上競技に憑かれたのはこの時から―

というように、威知さんの記録は本県の中距離界の驚異となった。八百メートルを得意として新しい記録を次ぎ次ぎに築きあげていった。
 昭和十三年に国鉄管理局の建築課に奉職した。ライフワークの建築家としてのスタートはこの時から始まったわけだが、ここでは中距離走者としての足跡を追いかけてみたい。
 昭和十四年、八百メートルを走って北日本、西奥羽と連続優勝の栄冠をかちとった。これから本格的な威知さんの"韋駄天人生"が始まったわけである。


走る魅力につかれる

 なぜ走ったかといわれても返事のしようがない。はっきりしていることは、走っていれば―苦労を忘れてしまうから。走っている時は無我の境に入れるのではないか
 「それと走り終えた時に感じる何ものにも例えようのない爽快さ、この魅力にとりつかれたのでは

という。
 夏は五時、冬は六時起床が勤務中の日課。朝八時の出勤時までがきびしくて楽しい威知さんの持時間であった。
 しかし、ここまでは陸上競技をめざす誰もがたどった道だと思われるが、威知流の体力づくりはあくことを知らない。
 四十歳台には四十歳以上の部に、五十歳台は五十歳以上の部にと、常に可能性の限界に迫っている。
 その記録を見ても、三十四年、三十五年八百メートル一位(県大会)。三十四年と四十三年には走高跳に挑戦して一・二五メートル台で一位のほかに四十四年には八百メートル、2分36・5秒で新記録を樹立している。
 四十三年三月、五十五歳で国鉄を退職した。建築家としても雪国の住宅建築について家をなし、在職中の三十一年に健康な住いの設計集(理工図書を刊行して現在まで八版を重ね宅建築のテキストとされてるほか最新建築材料やしい住いの科学(いずれも理工図書刊行)などと光輝に満ちた足蹟を残している。

[PDFファイルを表示]

退職後マラソンめざす

 威知さんの"第二の人生"は長距離のマラソンに賭けられた。本当の体力づくりは停年退職後に始まったといえよう。

 勤めのある間は、練習時間に制約があるので中距離しかできたかった。一日一万メートル以上も走りこむには、時間の自由な退職後こそふさわしい

と、こともなげにいう。恐るべきタフネスぶりである。
 四十四年の二月、神奈川県で行なわれた23回山下マラソン(四十歳以上短縮マラソン)に初出場して十キロを完走した。タイム74分27秒で十位、この年の秋の大会では記録も42分17秒と縮めて五位に入賞した。四十六年四月、国際マラソン全日本予選では二五キロ一時間51分08秒で十位にくいこんだ。この年八月国立競技場での第6回ナイターでは二十キロを走って七位。五十歳台では最年長の五十九歳である。
 八百メートルの記録も上昇している。ことし八月八橋競技場での全県大会では2分40秒でトップを飾ったことは大方の記憶も新しいところ。その雄姿にふれた人も多いことと思う。
 中距離走者から退職後マラソンを始めたという威知さんだが病弱に悩んだ時代もあったという。酒・タバコはたしなまたかったが甘味品が好きで、そのためか胃弱に悩んだ。国鉄入杜当初から昭和二十三年ごろまでは慢性の胃潰瘍、その青壮年時代はむしろ病弱の人だった。だから威知さんの競技歴では空白の時代であった。


最高年齢の記録めざす

 毎日の練習は、自宅から近いこともあって、秋田大学の陸上競技場が文字どおりホームグラウンド。八橋陸上競技場まで遠出することも威知さんには"朝飯前"。雪に閉ざされた冬季間の練習は、晴間を見い出して秋田―土崎間の往復が貴重な練習コースとなる。

 マラソンにもいろんなテクニックや理屈がありましょうがとにかく多く走りこんで距離を自分のものにする。これが最大の練習法だと思います

威知さんの夢は果てしない。

いつまで走るかと聞かれるが、マラソン最高年齢の記録をつくりたいのが念願。東京などでは六十歳台の婦人さえ一万メートルも走る時代。それから見たらまだまだ若僧です

 現代の若者たちに苦言も多い歩けば十分か二十分のところでもすぐにバスに乗りたがる。若者とふれ会う機会が多いが、見学などで十分も歩けば"疲れた、疲れた"という。これでは逞しい若者など日本からいなくなってしまうのではないか
 最近の建築ブームにふれて、

体裁の良い住宅が多いが肝心の雪に対する考慮が払われていない。秋田の風土、気候に合った冬暖かく夏涼しい住宅が少ないのでは

ともいう。
 繊細で幻想的。農かな自然を歌いあげるのが、威知さんの画風。かつては中央画壇の常連であったが、数年前から出展をやめて個展を八回も重ねている。

 最近の画壇は、奇抜さで宣伝効果をねらう俗悪なものが多い。のびのびとした雰囲気で詩情の漂う絵を私は好む

 高年組陸上の同志も集まった。元横手駅長の酒樹さん(六七)をはじめ県内で六人の仲間が十一月の山下マラソンに期待をかけている。肌寒い秋雨もやんで威知さんの練習時間だ。秋田大学のグラウンドでは顔なじみの後輩たちが親しげにあいさつする。上衣を脱いだ威知さんは身軽なランニング姿になる。リズムに乗って夕もやの中をみるみる遠のいていった。