ふるさとの社寺

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日吉神社    〜能代市 小杉山吉高〜

 天文の初め、能代市が野代とか農志路といわれていたころ、人家はわずか三十数軒にすぎない漁村であった。
 そのころ夜になると、海中に怪光を発する物があり、人々は怖れて網を入れるものがなかった。おりから盤若山麓に専助という孝行漁師が住んでいた。老母は長く病床に臥していたが、ある夜更けに目を覚まし、だし抜けに浜魚が食いたいといい出した。孝養いちずの専助は、深夜というのに海に出かけて網を入れた。ところが例の怪光を発する物が専助の網にかかったので専助はびっくりして網を捨てて逃げ帰った。
 同じ夜、農志路支配清水治郎兵衛政吉に夢のお告げがあり、翌朝、専助をともない海辺にあった網の中から怪光を発する童木を拾い上げてきた。時に天文二年(一五三三)旧四月中の申の日であったと伝えられる。政古は、この竜木は竜神ゆかりのものと思い、自分の屋敷に小祠を建てて、それをまつった。
 ところが、当時の桧山城主尋季ならびに清水政吉にまたも相前後して夢のお告げがあった。すなわち白髪の老翁が夢路にあらわれ

『われは竜神ではたい。神々の神、山王大権現なるぞ、この村の鎮守として来りしぞ』

と告げた。
 そこで桧山城主の箒進により川中島の八幡杜のそばに三宇を建立して奉祀した。これがいまの日吉神社の初まりである。
 そのご弘治年間までに米代川筋の変化とともに中島の両杜が危くなったので八幡社を愛宕山に遷座し、日吉杜は川向い落合(能代温泉地帯の東側)に移った。そのころ清水氏を初め百余軒が現在の大町、上町を開いて住居を定め、いまの能代市街が開けていった。日吉、八幡両杜の別当には男鹿から法印大光院栄長を招いた。これが現在の坂本、淳城両家の祖である。日吉社はそのごしばしば遷座をかさねた。永禄年中には日和山(いまの御旅所)に、寛永年中にはいまの長根町東端の地に移ったが、寛文四年(一六六四)能代奉行山方杢之功が寄進奉仕して社殿を造営(昭和二十四年類焼)した。神社杜の御神幸祭を旧六月十五日と定めたのはこのときの蓬座祭を記念したのである。
 明治初年の廃仏段釈までは能代寺と呼ぶ仏門と同居し大きな仁王像のある山門もあった。この神社の祭典については、清街筆記の寛政元年(一七八六)六月十四、五日の項にも、その賑わいが詳しく紹介されており、また、伊頭園茶話第三巻には安政三年の能代山王神幸行列帳にもその盛況のさまが述べられている。

 さらに時代がくだって明治二十六年、当時の能代第一の富豪大久保易太郎が奉納した御神幸祭図(坂本慶斎筆)が同神社に所蔵されている。一・五メートル四方もある極細密画で当時の夏祭りの盛況を偲ばせている。
 能代市の産土の神社として、住民の尊崇を集めてきた同神社の三百七年の歴史の歩みも平坦なものではない。明治初年の廃仏殿釈、昭和二十年の敗戦、そして同二十四年の能代大火、これらはいずれも、それれぞ異った意味での激変であった。このうち能代大火による類焼では由緒ある社殿や宝物の数々とともに、丁山を焼失した意味は大きい。社殿はそのご立派に再建され、みこしも再興された。
 しかし能代市民の多くが椹え難い郷愁をそそられる丁山の山車の軋りも囃の音も耳底に残るだけである。

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補陀寺(ぼだじ)    〜秋田市〜

 神奈月のころ、添川という所を過ぎてある山里に尋ね入ることはべりしに、はるかなる田のアゼ道を踏み分けて、心細く住みいなしたる庵あり。
 フッとそんな文句が浮ぶような所に補陀寺はあった。
 県下に末寺三十七、門葉五十三計九十寺を持つこの寺の歴史は古く、津軽十三湊の領主安東家の菩提寺として今を去ること約六百年の昔(正確には西暦一三四九年)、北秋田郡矢立村松原の地に創立された。
 開祖は藤原氏熊谷直頼の子、月泉良印禅師。
 現住職の鈴木鉄心氏で四十六代目である。
 比内庄松原にあったこの寺がその後、現在の秋田市松原に移された時期については、数度にわたる火災でその資料を失っており定かではたい。月泉禅師が迎えられたころ、比内庄松原の寺はおそらく松原寺といっていて、後、現在地に移されて、八幡太郎義家の守本尊の観音大士を祠ってより、亀像山補陀寺と改称され地名も移転と同時に移されたもののようである。
 そもそも補陀寺という寺院名の由来はサンスクリット(梵語)のPotalahaの音訳=補陀落からきており、インド南端の観音の住む八角形の山をいい、観音様を御本尊とする寺にこの名が冠せられるのは珍しくないという。
 移転後の一六一七年にも火災にあって境内の殆んどを焼失し本堂、庫裡などの伽藍はその後一六四五年に再建されて現在に至っている。
 ただ一つ山門だけが類焼を免れ修理のうえ現在地に移され樹令三百年を越える巨大な杉並とともにその姿を残している。

 この山門が足利時代のつまり四百年以上経過したものであることはその建築様式からも明らかである。
 ところで補陀寺が世人に知られる最大のゆえんは何といってもやはり、前中納言万里小路藤房卿(藤原藤房)が、二世としてこの寺で没したということによってであろう。
 延臣中の硬骨で、後醍醐天皇の信任厚かった卿は、建武新政の非を後醍醐帝に直諌して容れられず、新政に絶望し官職を拾て、行雲流水の旅に出たことは広く知られるところである。
 さて、その後の卿の足どりを寺の資料で追うと…かねて親交のあった月泉禅師を越後蒲原郡の正続寺に尋ね、無等良雄の名を得て禅師と師資の契を結ぶようになった。
 月泉和尚は、以前吉野にあって南朝のため、しばしば忠憤を洩らせる義僧で、そのころから卿との親交があったものと思われる。日本洞上聯灯録によれば和尚は能登国大本山総持寺より招かれても辞して往かず、とあり、また紫衣を有しながらも着用せず、破れ麻衣で一生を終った当代禅家の傑僧であった。
 この主従二人の禅僧は、やがて正続寺を離れ、かねての宿願であった奥羽地方を尋ねて南朝の再興を計ろうと卿の遠縁に当る津軽の安東家へと向った。
 彼等が落着いた羽州比内松原寺は、時の領主安東盛季によって改修され、月泉禅師が請われてその開山となったのが貞和五年(一三四九)であった。
 後、月泉は黒石の正法寺に転じたので、卿が補陀寺の二世を継ぎ、正平十七年(一三六二)十月十日、六十七才で没した―と伝えられている。
 そのため寺宝としては彼等の遺品が多く、主なるものに卿の笈(おいずる)、五条衣、自筆の碧巌録、自作の木像。月泉の二十五条衣、自筆の画像、などがある。