ふるさとの寺社

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大曲市の大川寺

 長延山大川寺は、大川西根仁王寺村にあった、真言宗大渓寺にはじまる。開基は、明徳二年(一三九一―北朝年号)で日山良旭と伝えられている。
 昔、川越次郎直賢という武士が出家して臨済宗の大方元恢の教をうけ、諸国を遊行し越中の眼木山にいたり、大徹宗令によって分座したともいう。この大徹という僧は、総持寺の瑩山紹瑾の五大弟子の一人、仙北に来て大渓寺を創建したともいう。
 しかし現在では、古書焼亡してたしかめるすべもない。いずれにしても、近世になって本山総持寺の直末を誇っているところから、並大ていの寺ではなかつたことが想像される。
 のちになって、大曲の雄物川のほとり鶉町の花妻という所に移り大川寺を称したことは記録にあり、そして現在地の古町にさらに移ったのは、天文二十年(一五五一)で四世幼庵快察和尚住持のときである。
 本山の輪番といって、年を限り本山に詰めてその事務をとることすなわち寺の参勤交たいのようなことを仰せつかったのは六世庭庵陽徹和尚で、この和尚は寛永年代からで、随分物入りであったことであろう。したがって此頃は、本山直末で輪番寺としての格を備えた堂塔伽藍であったことが推察される。

 この寺に、火防せ地蔵のあったことはあまりにも有名で、このことを、真澄は月の出羽路に、<大川寺の本尊の脇立の地蔵菩薩は、深井村の田堰から掘出し奉る也。何の頃よりか埋れ給えし事やら、彩色なども落て只黒仏にておわしける。此寺の六世庭庵陽徹和尚のとき、小僧ども挾筥(さばこ)の内にあやまちて火を落したり。和尚かつてこれを知らず、袈裟、衣にうつりてすでに出火ならんとする時、大法師和尚の枕元に立ちて大音にて火事が出るぞ起よと四五度も起せどふかく寝しづみて起ず其時彼の大法師枕をあららかにふみ飛し、火事出なんと云へば陽徹目覚めて眠蔵の内より火の揚りけるに驚き茶堂の茶水桶をいそぎ持てその火を打ち消て火災にもならざりし也。人々も皆起き出て、今の法師は誰なりといへども誰とて知れる人なければ、さては地蔵菩薩ならむと云ひていよよ尊みけりと見えたり>と記されている。また正徳年間も奇跡ありて火を免れたと伝えられ、なお古老は、寺男が子供の悪戯をたしなめて傷つけたら、地蔵の指が折れていた、などとまことしやかに、今に伝えられている。

 この法力もお告げも末世になって効うすれ、昭和二年六月二十三日、楼門のみ残して一切炎上してしまった。この大火の炎は上三郡に見えたという。翌日から先住三十一世非丘(相)唯一は再建に取り組んだ。もともとこの人は建築に対し非凡な識見の持主で、生涯数多い建築にたずさわり、中でも弘前の宗徳寺、五所川原の竜泉寺、東京駒沢の曹洞宗大学林、世田ケ谷中学、仙台の栴壇中学などがそれである。そこで京都の寺々を見、さらに盛岡の原敬の菩提寺である大慈寺を視察して意を決したという。先ず庫裡を建てた。この庫裡は総檜で実に広々とした立派なものでこれが唯一和尚のねらいであった。当然これにふさわしい本堂を建てなければならないことになり、十年の歳月と十一万円の巨費を投じて総欅(けやき)材で完工したのが県内屈指の今の大伽藍である。この寺域には往年政界の大御所であった榊田清兵衛の墓もあって、当住三十二世棟方宏源師によって守られている。


天王町の東湖八坂神社

 この神社は昔御衣宝刀の社と称し、中頃になって登宇古の宮とも言っている。前者は、ミノエノホドのやしろの意で、すなわち、水江の良所の社に通ずるものである。また明治の初期までは、一般に牛頭天王社とよばれていた。

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 この社の神事はきわめて変っていて往古の姿をそのまま残していることに大きな意義がある。新訳真澄遊覧記によれば、御神事は六月七日(今は七月六日〜七日)が本祭で、やまた大蛇退治の神代の故事をまねて、アシマッチ、テマッチ、のわざごとがある。正月元日より七日まで神主、統人達のいみや籠り。二月二十五日より味噌つきの神事九十日味噌という。五月二十四日酒部屋の神事、天王ではテマッチの女、船越ではアシマッチの男が酒殿にはいる。五月二十八日箸削の神事といって杉箸を削る。六月一日〜七日まで神主統人社内にいみ籠りして毎日神楽を奏す。六月六日には宮使脇本村にいたりて、なゆ竹五本切り、潮に打ちそそぎ持ち来る、これを初竹という。昔生鼻の城主阿部五郎友季が竹を植えさせたことに由来する云々とあって、この行事は今もこのまま行なわれているものが多い。

 大祭の当日は、まず七種の神供えとして白の蒸飯、八すぼりの酒になぞらえて四人で八つのつる桶を持つ。蒸飯は槲(かしわ)の葉二枚重ねのもの七把、水麻菜七把。そばのもやし七把。味噌七桶。豆もやし七把。杉箸七双をつる桶に入れて持出し、神主がこれを供える。
 みこしの行列は八雲立つ出雲八重垣云々とくり返しねり始める。乱髪の荒男五人が大旗をかつぎ、まこものこもを打ち投げつつ歩く、これを莚道ともいう。ついで牛のりである、これは烏帽子狩衣に顔を黒く塗り大弓を横手に矢をたばさみ剣をはいている。この男は何日か酒部屋で行をしたものでなければならない。これを乗せた牛を編笠をかぶった男がひき、前後左右に統人が囲み、これは素盞鳴尊になぞらえたものという。次にだしに花を飾り、やぐら舞と称し。編木二人広鉾二人、棒持二人が互に打合い、さらに大鼓二人、笛二人、神童二人に獅子頭など拍子にぎやかに続き、これに統人の男童大紋烏帽子の四人が玉瓶を捧げもつ。みこしの中の稲田姫の爪櫛にかたとり初竹五本を菅の縄にて結び布切れをさげてみこしをおう。また六七尺の大幣を御指棒という。この日神主は着飾って主役を勤むるのである。

 これとは別に、湖面に船を浮かべ、クモ舞の神事が行なわれる、赤衣をまとい紅白の麻のかずらをふり乱し顔を黒い網でおう異様の態でのけぞりのけかえるを、八岐の大蛇になぞらえ、これをクモ舞という。そこに牛のりが陸から出かけ服従させるという意であろう。
 クモ舞は、風波雷の荒神であり、牛乗りは静かにねる平和の神を現わしている。前に記した諸行事のすべてが原始的で、創草の心構えを忘れさせまいとする戒しめであろう。この神は初めは農耕の神であり途中から素盞鳴尊が合祀され、さらに牛頭天王が加えられ、明治になって神仏分離の折り東湖八坂神社となった。これが今の町名となった。
 阿倍臣が秋田の浦の神に五色の布と船を献じたとあるはミノエノホドの神すなわち天王社のように思われてならないと上法香苗氏が語っている。本殿は流造り境内広く、天国の短刀、三条宗近の剣など社宝あり、神主は社家の出鎌田利靖である。
   (県史編さん室 相沢清治)