碑(いしぶみ)の周辺 (第19回)

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湖をめぐりて文学碑  景観に情趣を添える
田沢湖畔の碑

 田沢湖は、この秋いやがうえにも人々の関心をあつめた。
 もともと日本一深い湖水として、その白砂青松のたたずまいとともに東北屈指の観光地ではあったのだが、これに駒ケ岳噴火という思いもかけぬ"景品"がついて、日曜祭日など車が珠数つなぎに列をなし、動きがとれなくなるほどの観光ラッシュにひしめいたのである。
 観光の形態は、はや一変してしまった。湖畔一周のハイウェイが完成し、疾駆する華の排気ガスで名物の青松もいささかしおれ加減、白砂のカンバスは原色の現代風俗でいろどられて、風景までが別世界の観を呈している。
 潟尻の村は消え、そのあたりに幻のごとく辰子姫の黄金像が出現した。ただ、形いい女人像がそこにあるだけの理由で、若者たちは車を止め、それを背景に記念撮影のシャッター音をやたら響かせる。
 かつて人々が、瞼路をいとわず杖をひき、幽遠な湖水にわが心を映しながら、あくなき美への憧憬から竜と化身した辰子姫の伝説に感興をそそられたのはつい先日までのことではなかったのか。
 豊富な田沢湖畔の碑を訪ねながら歩いていると、記者の心もいつか古人の心にかよい、ついこのような愚痴めいた心境にとらわれてしまうのである。


日東第一深―蘭径

 昔から文人墨客が多く遊んだ土地だけに、碑の種類も文学碑が圧倒的に多い。なかんづく、最大の名勝御座の石から潟尻にかけては、さままなのが建っている。
 異色ナンバーワンは、それこそ田沢湖を五文字でずばり表現した「日東第一深」の碑であろう。御座の石神社入口の年老いた杉のほとりに、雄津な筆致が躍って、人目にひかずにはおかない。
 昭和十年五月、角館町の医師佐藤順一らの手によって建てられたもの、いわば山中蘭径の詩碑であり、揮毫も蘭径自身による。
 山中蘭径は古美術研究家、書画鑑定家として現在東京に健在最近も『古美術』30号(45年6月)の浦上玉堂特集に「浦上玉堂の題詞と画題」なる論文を発表して気を吐いている。平鹿町浅舞の出身で、横手中学の教師をした国漢学者細谷則理の弟。
 昭和四年、小杉放庵らと湖心亭に一泊、翌朝湖上に舟を浮かべて興のおもむくまま
   駒峯雲外頂 倒影在湖心
   万頃瑠璃碧 日東第一深
 の五言絶句をものした。帰途角館に立寄り、前記の佐藤国手らと会食の席でこの詩を吟じたところ「日東第一深」で田沢湖をあますところなく表現しているので、ぜひ建碑をという話になり、後年にいたり実現したというのが建立のいわれ。
 除幕式には再び放庵をともない、蘭径は碑の台石に坐して得意の一絃琴を奏でながら、この詩を朗唱して湖水に捧げた。放庵もこのとき
 一すぢの琴の心は八千ひろの湖の底にもとおるべきなりと、琴にのせて自作を吟じた。


潟尻は家七つ―放庵

 その小杉放庵の歌碑が潟尻にある。昭和四年、蘭径らと舟上から潟尻のカヤ屋根部落を眺めながら、この村は何百年も昔から今にいたるまで戸数七軒より増減したことがない、それが村の掟であるという話を聞いて興がり、よんだのが
   みつうみの夕の水の落つるなり
   家七つある潟しりのむら
 の歌である。「日東第一深」の碑の前年、やはり佐藤順一らの手で、初め漢槎宮の入口に建てられたが、四十三年秋、ここにレークサイド・ホテルが建つことになり、現在地(ホテル入口に近い湖岸)に移された。

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 小杉放庵(明治14〜昭和39)は栃木生まれの、東大講堂の壁画で知られる画家で春陽会創立会員。しかし未醒と称した若い頃は独歩ら文学者と親交があり社会主義にも接近し、画報通信の従軍記者として日露戦争に参加した時の『陣中詩篇』は反戦詩集として有名。歌もよくし『山居』『石』などの歌集がある。十和田湖の大町桂月ほどは及びもつかないが、県外の文人としては田沢湖ともっとも縁の深い人の一人であろう。
 放庵歌碑は、角館駅のプラットホームにもある。地面にじかに置いた平べったい石に
   大威徳の山にひとすじよこたわる
   あさ雲のありかくたてを去る
 の歌が刻まれている。


仙岩峠にて―百穂

 画人で歌人、若い頃社会主義に接近したといえば、そのまま角館人の平福百穂の生涯にあてはまる。百穂もまた、当然田沢湖とは深い縁に結ばれている。
 歌人になりたての明治四十年、三十歳の百穂は、湖に題した四十首をよんで茨城にいた長塚節のもとへ送っている。そのうち十一首が、彼の唯一の歌集『寒竹』に収められている。
   罪あれば跨ぎ得ずちふ裂岩をわれまたぎ得ず心あやしも御座の石の故事によせて、わが青春を自責のおもいで哀惜したものであろう。
 百穂歌碑は、春山の蓬莱の松の北東の道端に建っている。歌は大正十五年、アララギ系の歌友藤沢古実とともに、東京から白田舎塾生らの一行を連れて国見峠越えに帰郷の途中、峠の頂上でよんだもの。したがって湖岸には、いささか場違いの感がある。百穂自筆の万葉仮名を刻んだもので、昭和九年九月九日に大曲の文人赤川菊村、田口松圃らの手で建てられた。
   いにしえゆくにをさかいすみねのうえ
   昔由国乎左加比寸嶺之上
   いわてあきたのくにをさかいす
   岩手秋田能匡遠界須
 百穂がこの歌をものした頂上地点には「従是西南秋田領」の石柱が立っている。仙岩峠が開通した時、秋岩両県の文化交流を記念して、ここに新しく百穂歌碑を建てようと準備が進められたことがあった。石材まで用意されたが、候補の歌
   ここにして岩鷲山のひむがしの
   岩手の国は傾きて見ゆ
 に、「傾きて見ゆ」はいささか不愉快なりと山石手側からクレームがついて難産のままである。

 仙岩峠といえば、二十七歳の田山花袋が日清戦争のさ中にここを越えている。通称座頭ころがしの難所で転んで足を捻座しやっとの思いで生保内にたどりつき、藤村又右衛門旅館へ一泊した時のことが『東京の三十年』の中の「私と旅」の中に記されている。その時の歌
   あしびきの山ふところにねた
   れどもなお風寒し落葉乱れて
 の碑が、昭和四十三年秋、北浦史談会の手で生保内公園の入口に建てられてある。


波打越ぬ―露月

 句碑といえば、御座の石の浜辺に石井露月のものがある。
   秋と言えば波打越ぬ御座の石
 昭和四十二年秋、西明寺をかけて潟尻を旅した時〈コスモスや村の名問えば潟尻よ〉などの句と一緒によんだうちの一つ。

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 今でこそ発電所へ水を落して水位がさがり御座の石はいつも露頭をあらわにしているが、天然記念物クニマスの魚影がみられた当時の御座の石は、渇水期でも石の上にひたひたと寄せるぐらい水量は豊富で、秋ともなれば赤い鳥居の脚がサファイヤをとかしたようなブルーのさざ波に洗われて、季感をきわだたせていたのである。
 句碑は辰子像の建立と合せ観光資源とすべく、県と関係町村の手で建てられたものである。


辰子姫―友治

 辰子像に寄せた富木友治の詩がある。小野崎孝輔が作曲し、その除幕式では華麗な演出のもとに披露された。
   出羽の山 幾重のはてに
   水たたえたり
   靄森山 もやにかすみて
   めくるめく 春のひと日を
   をとめ子は 沐浴(ゆあみ)すという
    HITA HITA HITA HITA
   音のみぞ うつつにきこゆ
   白日のゆめ


 辰子伝説をうたった、抒惰をもった叙事詩である。柳田国男門下の民俗研究家だが、昭和十四年以来郷里角館にあって、地方文化の向上のため実践に身を投じた。豪放野人肌の人で、歯に衣着せぬ物言いから、エセ文化人の類には敬遠されたが、周辺には彼を理解し尊敬する一団の人たちがあり、同地方の文化運動の推進力となっていた。
 版画の勝平得之と共著の『橡(とち)の木の話』や編著『田沢湖』などがある。四十三年五月、わずか五十三歳の若さで急逝、その一周忌に「田沢湖讃」から前記の一章(終章)を刻んだ碑が、辰子像に近い湖岸に建てられた。


用水トンネル―三之助

 大森山―全国植樹祭の会場となった記念植栽地には、御製を刻んだ記念碑が建っている。
   みつうみのながめえならずと
   きく大森に杉をうえむとおもいしものを
 四十三年、湖水に新緑映えるこの大会には天皇、皇后両陛下をお迎えする予定が、八戸地震のため急拠お取り止めとなり、かわりに宮中でお手植えされた二本の杉が、この地へ運ばれて移植された。
 翌年、改めて県下の事情をご視察においでのさい、両陛下はその堀へお立寄りになり、すくすくと成長された杉をご覧になられてご満足げなご様子だった。

 生保内から石神橋を渡って間もなく田沢湖。入口が湖畔銀座ともいう白浜である。郷土博物館も新しく建ち面目を一新したが、道路から浜へ真直ぐ突き当る木立の中にも、石碑が一基ある。田口三之助功績碑―。
 三之助は明和八年(一七七一)の生まれ、天保年中に没した。石神部落のため、田沢湖から独力で隧道を掘さくし用水をひいてくれた、農業利水の大先達である。
 それまで石神の人々は、玉川の水に頼っていた。しかし毒水の害が年々ひどく、収穫はがた落ちで貧困に迫まられていた。三之助はみかね、湖水からの導水を計画、田畑から家財道具まで売り払う犠牲を払い、八年余の年月をかけた末に、ついに南北に四〇〇メートルの隧道を完成したのである、
 やがて湖水も毒に汚された。用をなさなくなった三之助堰も今は人々に忘れられてしまっている。
 堰跡の上にはレストハウスが建ち、ぼう大な量の客足をのみ込んでいる。ボート小屋の近くで石碑となった三之助翁は何を見ているのだろうか。