人・その思想と生涯(50)

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赤川菊村と田口松圃  木下孝
実録「桜田門」

 赤川菊村が、著書『桜田門』を出版したのは、大正八年、三十五歳のときであった。『桜田門』は題目のように、水戸の浪士が井伊直弼を暗殺した、いわゆる桜田門外の変を扱った物語である。
 菊村は中央新聞界ですでに名をなし、国民新聞社長徳富蘇峰の招きにより、同社の政治記者として活躍していた。『桜田門』は大正二年に東京日々新聞に百二十回にわたり連載したものをまとめたもので、徳川圀順が題字を書き、蘇峰が序文を寄せている。
 当時は、まだ事変から五十年後のことで、浪士の総帥である金子孫二郎の二男で、同じく一方の巨頭高橋多一郎の養子高橋諸随(もろみち)が生存していたので、この入から精細に話を聞き、これを軸として、水戸にもしばしば通い、事件をよく知る十数人から聞いたものを補って書き綴ったものである。
 関係書類や記録を全く避けて書いたと菊村が述べているように、あくまでも実施に取材したものを尊ぶ記者魂が脈々と生きている。文章も当時としてはわかり易く、小説は描写もすぐれ、読みものとしておおいに受けたであろうことは想像される。
 この『桜田門』の賊文を、田口松圃が書いている。松圃は当時、大曲のローカル紙、仙北新報の社長をしていた。同じ三十五歳である。賊文はかなり長いが、菊村の人柄や当時の活躍ぶりをよく描写しているので、抄録してみる。
 〈…赤川君は楽天の人だ、そして情の人だ。括淡で快活で、さっぱりした人だ。君は天才肌の人だ。そして芸術家の人だ。君は師範学校から郷里の記者時代にかけて、君はおそらく君の文学的天才を発揮した。(中略)…東京の記者生活に入ってから岩の文章は益々さえ、益々枯れて今日に及んだことはいうまでもない。(中略)…特に人物の性情、態度の観祭において、社会の環境や風物の構写において、君の和歌、俳句のそれと同じく、いつもその印象を、さながらいきいきと叙して行く手際に、他の追従し得ざるものがあった。私の最近見たる君の文章においても、徳川頼倫侯を大磯の別荘に訪問したる記事、物見山、小坪海岸の叙景、烏丸花子巻書いた哀話「初花内侍」およぴ毎年の開院武や議会の記事などの如きは、私の三嘆を禁じ得ざるものがあり、新聞の記事としてよりも、一極の創作を見るように澤然したるものに非ざるのはなかった。〉


天才画少年

 このように菊村を評した松圃もまた天才肌の人であった。
 松圃は本名田口謙蔵、大曲のトップクラスの素封家田口米吉の二男として生まれた。明治十六年二月六日である。
 祖父岩蔵は、松圃が幼くして非凡な才能のあることを見抜いて、満三歳から大道政治郎という人をつけて勉強させた。政治郎は旧藩時代に大曲へ常住していた目明しで教養があり、書画を好んでいた。そのころは、旧本陣が藩から大曲町へ引き継がれ鞠水館と呼ばれていたが、ここの守り役をおおせつかっていた。
 政治郎の教育も熱心で、いまでいう早教育が、松圃の天才を助長し、他の子どもより二年早く五歳で大曲小学校に入学し神童といわれた。菊村の追億記にく私の如き正常七歳組が高等二年に入学せし時、すでに高等四年に嶄然屹立していた〉とある。

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 とくに日本画には、常人にない進歩を示した。明治二十四年、秋田市伝紳画会で全国から作品を募集し展監会を聞いた。そのとき審査に当った鈴木百年(京都)、菅原白竜(東京)の二人を驚かした二人の少年があった。
 一人は十五歳の平福百穂で、もう一人は九歳の田口松圃であった。百年、白竜の二大家は、二少年の筆致に感じて奉書紙に漢文の奨励詞を書いて、手づから与えたという。
 祖父岩蔵は、松圃を家のよき後つぎ、すなわち経済家、政治家にさせたいと思い、その後絵をかくことを禁じたため、この方の才能を伸ばすことができなかつた。しかし終戦後、食糧難時代に乞わるるままに絵を書いたこともあったので、松圃が故人となった昭和三十一年に遺墨展を大曲市で開いたとき、幼少時代の絵と晩年の絵とを比べてみて、そこに数十年のブランクがあるにもかかわらず、ひとつも退歩がみられず、観る人をして驚嘆させた。そして、百穂と肩を並べるほどの画才を伸ばし得なかったことを惜しませた。


仏教美術の深奥

 しかし松圃の画才は、その後、絵画とくに仏画鑑賞に道を求め、奈良、京都にしばしば足を運び、仏教美術の道を深めて行った。絵画については百穂はもちろんのこと、秋田市出身の小場恒吉(紋様学の大家、芸大教授)ともっとも親しく、その影響も受けた。田口家の仏壇にある厨子の内側の美麗な絵も小場恒吉の筆になるもので、松圃の二男謙二郎(現平鹿高校校長)が学生時代に小場家でその薫陶を受けたほどである。
 その他多数の美術家とも交流があり、戦後、こ十三年に県重要美術調査委員、二十六年から県文化財専門委員となって文化財発掘に努め、また同委員長として幅広い活動を続けた。
 仙北郡西仙北町小杉山の円満寺にある二の舞の面を県重要文化財に指定するため、国の文化財保護委員藤島亥三を大曲市に招き、調査してもらったことがある。そのとき松圃は遠慮深そうに、自分の持っている仏像を出したのを藤島氏が手にして「奈良の千体像の一つですね、さすがは…」と、その木彫観音像のすばらしさを感嘆して眺めていた。そして「よい仏像を手に入れられましたなあ」と松圃の眼識の高さをほめたたえていた。その後、この仏像も県重要文化財に指定され、いまも前記の厨子の中に安置されている。
 松圃の随筆の中にこんなのがある。
 〈……"菊の香や奈良には古き仏たち"、芭蕉のこの一句が、私の奈良の印象を尽し得たのであった。そして古への大宮人炉讃美的に樟様的に詠じた"青丹よし奈良の都"の咲く花の匂うが如き盛りの有様は、史的知識にうとき私の連想から甚だ遠いものであった。〉
 また大正十一年、法隆寺をたずねた文の中には
 〈私炉法隆寺に詣ること、これで三回。いつ来ても"偉大"という感じには変りがない。…のみか、今初めて見るようなフレッシュな感じに打たれざるを得なかった。中門の類のない構造を圭く見る。二五は決して創建当時のままではあるまいが、しかし、鎌倉式の誇張や覇気がなく、丁度五重塔内の塑像を見るような自然味があってよい。〉
 とあり、こうした文の中に、松圃の仏教美術における観賞態度がうかがわれる。
 法隆寺を三回も見て、なおその都度新しい感覚で見て行く鑑賞態度が、松圃における美意識の深さを増さしめたのだろう。


新聞人として

 松圃はしかし、なんといっても文章においてその天分を遺憾なく発揮した。松圃が秋田中学へ入ったのは十三歳のときで、当時は菅礼之助、池田謙三、滝田哲太郎(樗陰)らと相伍し、級友雑誌委員にあげられている。

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 また友人の会田常夫から俳句の影響を受け、俳人としても一家をなした。のち早稲田大学政経科に入ったが、文学のあこがれはますます募るばかりで、文科の坪内逍遥の講義に熱中した。祖父岩蔵はせっかく期待をもって政経科に入れたのに、それ以外の研究に首を突込んでいてはと、逆に中退させてしまった。
 しかし明治三十七年に大曲を代表する地方紙、仙北新報が誕生するにおよんでこれに関係し、随筆を載せはじめ、初代社長小西平洲(伝助)のあとを受けつぎ大正七年から太平洋戦争中、地方紙が廃止されるまで仙北薪報社長として、さらに終戦後同紙が改題された秋田民報にも継続して数多くの随筆を発表し読者に親しまれた。その他、秋田魁など県内外紙や雑誌にも寄稿している。
 松圃は明治末期、二年ばかり東京で生活したことがあるが、その間、高浜虚子や河東碧梧桐、長谷部言人、柳田国男、黒板勝美、伊東左千夫らと交わり、さら一に平福百穂に師事して学域をひろめ、かつ深めていった。
 大正二年からは、昭和三十一年に亡くなるまで、ずっと大曲に在住したが、これらの人々との交流は、時に触れ、折に臨んで続けられた。


師範生の恋愛

 一方、菊村は松圃と同じ明治十六年の三月二十一日に大曲市藤木石堂の石堂分教場で、赤川良蔵の長男として生まれた。本名は源一郎という。良蔵は分教場主任をしており、のち校長となる。
 赤川家の先祖はもと平鹿郡旭村にあり代々学問を好む人が多かった。それに父が教育者であるため、読書する環境に恵まれていたといえよう。

 七歳で小貫小学校、十三歳で大曲小学校高等科に入り、十六歳で同科を優等で卒業した。そして卒業と同時に当時の大曲の文化界の代表的人物であった小西平洲(伝助)の家の丁稚奉公に入った。
 これは後に仙北新報の主幹となった藤田亡哉(金治)のあっせんによるものであるが、菊村の天才をよく見ぬいてのことであったろう。平州は菊村に対して徹底して学問をさせた。菊村が文筆生活に、新聞記者生活にあこがれを持ったのはこのときであった。
 そして明治三十三年、秋田師範学校に入学した。そのころ、すでに短歌に長じ"村の人"というペンネームで秋田魁新報その他に、しきりに短歌、歌論、文芸論を発表している。
 秋田魁に短歌欄を設けさせたのも菊村で、安藤和風に進言し、それが聞き入れられて最初「新歌壇」という名称であったが、二回目からは「魁歌壇」となった。「薪歌壇」にはもちろん"村の人"の二首が載った。

 合歓の香にあやかれ人の才にしてこはまた稀有の耻(はじ)におののく

 ろうたけき地も引く髪の垂れやうにこち向きませの口を開かぬ

 師範在学中、このように文学にすぐれていたため、女子師範生高橋繁子が菊村に文学上の質問のため手紙を送った。これだけで大きな問題となった。三十五年に本科三年開始とともに転落、それでも小学校教員免許状を得て土崎小学校の訓導となった。そして女子師範を卒業した繁子と結婚にふみきり、繁子は仙北郡清水村の小学校菊村は雲然村の小学校に赴任し、清水に居を構えた。
 二人の短歌に、こんなのがある。

  舎友(とも)よ君旅の情けに似たる恋 (しげ子)

  我とうつけて菊の扉によれ     (菊村)

 また俳句にも興味を覚え、石井露月に句稿を送って文通をはじめた。以来露月に師事したが、露月研究者としても届指の人である。文芸の道は、こうして開かれ、当時《新小説》《文芸倶楽部》などにも投書して、しばしば当選した。


枕流館六番室

 三十七年、二十二歳のとき、菊村は大川西根小、繁子は花館小(いずれも現在は大曲市)に移り、繁子が出産したが、惜しいことに糧子ともに死亡。傷心の菊村は教員をやめて、小西平洲らに招かれて仙北新報発刊当時の同紙記者となった。これが記者生活のはしりで、同年、平洲のすすめで東京の内藤湖南宅に止宿し、その薫陶を受け、湖南の世話で岡山県の中国民報記者となった。
 なお菊村は、のち水戸時代に吉田武子と結婚し生涯を共にしたが、子に恵まれず、晩年は養子夫婦にかしずかれ執筆に専念した。
 田口松圃とともにつき合うことになったのは仙北新報記者時代からと思われるが、当時から松圃は随筆を書き、菊村は記事を書き編集するといったコンビであった。菊村は中央に進出しても、しばしば大曲に帰っては仙北新報で活躍した。

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 仙北新報社の編集室は、変ったことに旅館の中にあった。大曲町のまん中を流れている丸子川にかけられた丸子橋のたもとにあった枕流館という旅館で、その六番室が編集室に当てられた。二人とも酒豪で、ここで大いに飲み、論じた。
 松圃のそのころの日記をひもといてみると、毎日のように朝家を出ると枕流館の六番室一に足を向けて、そこで菊村や冨樫幡神、飯村稜山らと会い、それからいまの大曲勤労青少年ホーム前にあった江東義会の会館で玉を突き、仲間ができると鞠水館(旧藩時代の本陣)へ落着くといったのがコースとなっている。
 幡神らはやはり仙北新報に関係した人たちで、いずれ劣らぬ文章家であった。江東義会は町の有志たちの集会所で、政治的活動や文化活動もここで企策された。鞠水館は当時料亭となっており、岩谷一六、河東碧梧桐などかなりの有名人が宿泊もしている。ここで同志と酒をくみかわし、夜十時の時鐘を聞いて帰宅するのが習慣となっていた。
 松圃、菊村ともに俳句をやり、石井露月がしばしば大曲を訪ねたが、このほか安藤和風、柴田果らも六番室に数多く足を運んだ人々の中に入るようだ。
 俳人の集まるところに吟社ができる。松圃、菊村、それに伊藤秋田坊、金沢青陽、中村月光、高田鴎水、小田野轢窓、渡辺曲水といった人々で万流古吟社が結成されたのが明治三十九年。万流古の名は丸子川からとったもの、俳誌《まるこ川》をつくったが、三号で終った。
 翌四十年に同じく雑誌《白虹》を出したが、これは十一号まで続く。臨時増刊として轢窓号、露月号、虚子・百穂の露月訪問号などを出した。これらの俳誌はほとんど散逸してしまったが、露月訪問号に百穂のスケッチが木版として出され、その中に松圃が写真機をもって撮影している風景がある。
 松圃は絵が上手なのに、機械には極端に弱く、写真機も、もちろん当時は写真館にあるよう右大きなもので、頭から黒布をかぶってピントを合わせるのだが、松圃は写真機の蛇腹をひき出すとひっこめるのを知らないといった具合で、写真機運びを一人したがえていた。
 腕時計もニガ手、万年筆もインクを入れる操作を面倒がって、亡くなるまで原稿はほとんど鉛筆書き、あとは毛筆か金ペンを用いていた。
 吟社の指導的役割りをしたのが、もちろん露月で、露月の書いた「万流古吟社」の額が六番室に掲げられ、それが枕流館主人だった渡辺賢次郎氏宅に現存している。
 伊藤秋田坊は現仙北医院の伊藤四郎、五郎両氏の厳父だが、松圃、菊村とともに大曲の俳句界を推進した功績は大きい。三人はおおいに飲み、おおいに談じお互い腹を割ったつき合いであった。ときには、ふだん温厚な松圃と、磊落(らいらく)な秋田坊が、側の者の酒の酔いがさめるような、お互いの作句に対する激論を飛ばすこともあったと、現万流古吟社の高橋石洗氏が回顧している。決して金持連の単なる趣味の集まりではなく、真剣に文芸の道を探求していたことがわかる。
 万流古吟社は、その後しばらくすたれ別に松籟吟社というものもできて戦後を迎えるが、後輩たちは再び万流古吟社を結成し、現在にいたっている。松圃、菊村はもちろん、この顧問的な存在で、とくに菊村は松圃亡きあとも毎回出席して指導に当った。ただし菊村は、短歌の方が本命であるとして、俳句の指導に当ってはすこぶる謙虚であった。


大曲小唄

 さて、松圃は仙北新報社長をしながら政界にも求められ、大正十四年、大曲町長に選ばれて二期、さらに昭和十二年には県議にもかつぎあげられたが、これは一期でやめている。松圃は口下手で、筆を持たせては人後に落ちることはなかつたが、大勢の前で話をすることは最もニガ手で、政治家には不向きであった。
 昭和七年、大曲図書館長となり、亡くなるまで続いた。また、昭和十五年県史編さん委員、二十三年には県重要美術調査員、二十六年には県文化財専門委員となったことは前述の通りである。そして三十一年一月十六日、七十二歳てこの世を去った。

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 松圃の死は突然訪れた。その日は雪の降る寒い日だったが、大曲市内の洋画を趣味としている人たちの集まりであるパレットクラブの新年宴会に招かれ、最も気嫌のよいとき脳溢血でポックリ倒れ、意識を失ったまま料理屋の一室で昇天した。
 好きな酒にひたり、好きな宴会場で……、いかにも松圃らしい死だった。図書館長室には、いつも町の文化人ばかりでなく、若い連中も集まり談笑が絶えなかった。市民の各層から親しまれた。だから松圃の葬儀は、大曲市でははじめての文化葬として営まれた。葬儀には、合唱団が「大曲小唄」をうたって松圃の在りし日をしのび、涙し合った。詩情豊かな
  丸子橋行きや柳が招く…
 の歌は、昭和五年につくられた。松圃の作詞、小田島樹人の作曲、振付けは五条珠実である。それ以来、いまもって「大曲小唄」はすたれずに歌いつがれている。会葬した人たちは、万巻の経文にもまさる手向であると、大きな感動をよんだ。


萩沢歳時記

 菊村は、前記のように岡山の中国民報の記者をしたあと、一時郷里に帰り仙北新報で活躍し、明治四十二年東京のやまと新聞に入り「藤村操は生きている」という連載ものを書いた。自殺した操が生きているように書けという社命でフィクションを書いておおいに受け、発行部数が急激にふえたが、書いている本人がバカらしくなり十五回ぐらいで止めた。
 都新聞時代には、乃木大将自刃のニュースをスクープするなど、馬場恒吾らとも肩を並べる一流記者にのしあがった。最初に紹介したように、国民新聞社へ入ったのは大正六年で、この時代、朝鮮から中国に取材旅行している。十三年に退社、月刊《温泉春秋》を出したが、翌年夕刊茨城民報に入り、論説を担当した。
 昭和三年帰郷、仙北郡仙南村(金沢西根)菻(がつき)沢の佐藤家に残る記録をまとめて『森沢歳時記』として出版した。明治時代からの日記で、その時代時代の経済変遷の事情などがよくわかる貴重な資料である。昭和十七年一月に発行された。菊判六六〇ページの大冊で、柳田国男の序文がある。菊村がゲラ刷りを送って序文を願ったが、柳田は初めは序文を書く気もなく、ひろい読みしているうちに興味がわき、一気に全文に目を通し、長文の序文を書いてよこした。同書の価値を裏づける貴重な序文といえよう。菊村の驚喜したありさまが、あと書によく書かれている。
 また十一年には『飛行詩人佐藤章』を出版した。佐藤章も菻沢家の出である。
 菊村が秋田魁に入社したのは昭和十五年で、そのころから秋田県文化史の著述を心がけた。五十六歳のときである。
 終戦間もなく二十二年に退社、晩年は文化史のまとめと、酒造業界から依頼された伝記の執筆ととり組んだ。そして文化史は晩年ほぼ完成し、原稿用紙三万枚におよぶぼう大なものとなった。このため出版の実現困難のまま、三十九年四月二十三日、心臓病で亡くなった。葬儀は万流古吟社同人はじめ知己多数出席のもとに大川寺で盛大に行なわれた。
 文化史は明治はじめから明治百年にわたる県内の文化関係のものを記述したもので、とくに石井露月についての資料は貴重なものといわれている。菊村の真価は、この著書が世に出てから決定ずけられるであろう。
 松圃も菊村も、郷土を愛する人であった。郷土史に関係した功績も大きい。
 次に万流古吟社の進藤芽風氏に、松圃と菊村の作品をいくつか選んでいただき紹介しよう。

 〔田口松圃〕
  大桶のたが結ふ門や渡り鳥
  北風や町がふくみし一里塚
  短日や網の目をつぐ窓明り
  散る銀杏向ふ上りの町長し
  一塊の土あれば植う木の実かな
  墨すれば墨の匂ひや床の梅
  客既に去って梅あり灯しぬ
  白梅のパルシカの壷にさしてみる
  老梅の一枝は天を指すごとく

 〔赤川菊村〕
  荒めるや名ばかり残る裏畑の蕪のごとく老ゐて侮あり
  舞扇かつ閃めければ明眸の澄みまさりつつ春たゆたふ
  はしけやしペルシャの壷のもの耳を愛(か)なしきものにうち眺めつつ
  一夜さのただ一夜さのめぐりあひ親しき壷にものいひかくる

  連るる牛連らるる牛や雲雀哺く
  風土記にありし里名や雲雀喘く
  紫陽花や潮鳴りに暮るる村のあり
  五七間築地崩れて蜻蛉飛ぶ  (原文のまま)



 筆者=明治四十二年秋田市土崎生まれ。秋田中学、秋田師範卒業後、秋田市築山小学校教員、のち秋田魁記者を経て本年七月まで秋田民報主幹。現在大曲市文化財保護審議委員、大曲市郷土史編さん委員。大曲市大町8―10住。