人・その思想と生涯(45)

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石田八弥と石田英一郎 (奥山潤 )
『日本民族の起源』

 昭和二十三年東京神田。戦争の跡がまだ残っている街並のとある喫茶店の二階で、石田英一郎司会のもとに、五月三日から五日まで、朝から夜おそくまで続けられた民族学者岡正雄、考古学者八幡一郎、東洋史学者江上波夫の四人の座談会は、日本古代史学にとり、最も輝やかしい三日間であった。討論のテーマは「日本国家の形成と皇室の種族的=文化的系統」「日本民族=文化の源流と基盤」という魅力に富んだものであったが、雑誌『民族学研究』に発表されたその概要を知った学界は、その大胆奔放で古代史研究の常識を破った発言に驚き、呆然となったのである。
 八幡一郎が語るように〈全く鮮やかな司会ぶり〉を見せた石田は、ついで当時最も進歩的先端と自負する唯物史観の学者連中の批判に対して〈峻厳霜の如き叱責で彼等を封殺した〉のであった。
 事実、石田英一郎がした反撃は、よく史学会で発言される"見解の相違"とか"私はこう信ずる"などという御託宣とは本質的に異なったものがあった。のちに、一本にまとめられ、詳しい発言者の註をつけて発刊され三ヵ月で五版をこえた『日本民族の起源』の巻頭に、石田はその反論も組入れているばかりか、その後ウィーン大学の同攻の先輩で心友でもある岡正雄に対しても後の学問の進展で塗互いに論争をくりかえしていたのであった。
 〈およそ学問の世界に、たとえば毛沢東思想を学習すれば事足りるといったような安易な道はゆるされない〉と言い切る石田英一郎その人こそ、羽仁五郎や、まつしま・えいいち等に対してさえ一歩も譲らない痛撃を加えた唯物史観の持主であった。
 石田英一郎が、花輪町今泉の人石田八弥の長男として生まれたのは、明治三十六年である。


才子と佳人

 明治九年、秋田太平学校の洋学科が廃止され、変則中学校が開校すると、鹿角から十名たらずの生徒が第一期生として入学した。その一人に花輪町今泉の士族奈良又助の五男八弥がいた。少年八弥は一つの実直な希望をもっていた。当時小坂鉱山は南部藩から政府の経営となり、ドイツ人技師が技術指導に当っていたが、八弥がのち娘たちに語ったところによれば「日本人でもできないはずはない。自分の手でそれをやってみよう」という目的がそれであった。
 八弥が変則中学に入学する一年前、秋田県権令として着任したのが石田英吉である。彼は土佐藩の出身で、幕末の風雲渦まく京で活躍した天誅組の生き残りとして、その後長州藩と行動を共にし、戊申戦争では長崎振遠隊の隊長として三千余を率い船川上陸、仙北方面の戦線に向った生えぬきの勤王家であった。
 石田英吉には、道行く人が振り返るほどの美人で理知的な一人娘、裕子があるだけだった。どういういきさつか、英吉は、数年前まで賊領であった鹿角の士族の子奈良八弥を裕子に迎えたのである。
 明治十四年、八弥は工部大学に進学した。婚約は翌年であるが、実際の結婚が何年かはわからない。十九年、工学大学は帝国大学工学部として改編、八弥は大学院で冶金学を専攻した。同級生三人の一番だった、とおかしそうに娘たちに語ったという。

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 八弥の故郷花輪の俳人阿部胡六の生母小田島ハツは平民の鈴江家から士族の小田島家へ嫁入りのため、奈良又助の養女になり、八弥には義姉にあたる。八弥・裕子夫妻をおじさん・おばさんと呼ぶ胡六は「それはもう大変な美人でした、おばさんは。おじさんは――、ぶおとこでした」と語る。
 大学院を終えた八弥は、郷里に近い小真木鉱山で一年実習したのち、単身ドイツのフライブルク鉱山大学に入学した。
 高地ドイツの鉱山地帯にある大学で、二年間の留学を終った八弥が、ヨーロッパ各地の鉱業技術情報や経営事情を視察して帰国したのは二十四年末である。


純粋な金属

 帰国してすぐ、八弥は宮内省御料局鉱山寮技師となり、生野鉱山精錬課長を勤めるかたわら、母校の講座も担当した。
 生野は銀山である。日本の有用な非鉄金属鉱石は、ほとんど多量の硫化鉄鉱を随伴している。これは光沢こそ金に似て光るが、実に邪魔で、多量に産し、しかも資源としては役にたたない。八弥はこの鉱物の、鉄と結合している硫黄を利用して、硫酸製造原料として生かす工程の完成をめざした。従来、単独または精製した硫黄を主原料とした硫酸は、無限に近く無価値な硫化鉄鉱を主原料に切替えることで、低コストで生産されることになった。安価な硫酸がこうして多量に生産さされることにより、日本の化学工業は一躍発展の機会を与えられたことになる。この貢献はきわめて高く評価されていい。
 政府が佐渡、生野の両鉱山と大阪精錬所を三菱合資会社に払下げたのは、明治二十九年である。
 八弥はそのまま三菱に入社、大阪支店の副支店長として大阪精錬所の操業を担当した。
 非鉄金属精錬を主業とする大阪精錬所で、最も多く生産される高価な金属は銅である。日本は世界有数の産銅国であるが、精錬された金属銅はつまり粗銅で、金銀を含有したまま輸出され、みすみす損失を見送るだけであった。八弥の大阪精錬所で、ほとんど終生手がけた技術は、金・銀・銅の電気精錬であった。
 電解槽に満たされた電解液に含まれる金属イオンの性質を応用して、純金属から純金属を一方の電極に集める電解法は、アメリカなどでは既に操業をはじめていたが、原理は簡単でも一般に量産の設備になれば、その実収率、資材の損傷などで、多年にわたる失敗や故障がつきものである。精錬所は、電気銅生産に必要な硫酸銅の製造にも成功した。
 電気銅の成功に次ぎ、当然のことながら、電解法による純金の生産にも成功した。金本位の国にとって、純度の高い金の生産は、世界経済界の信用を高めたばかりでなく、電気銅の生産と薄板を造る圧延、電解銀など、三菱が得た利益は莫大なものがあった。いわば石田八弥は、三菱大阪精錬所そのものであった。
 そのような八弥の技術人としての生命が、財閥の独占的企業の利益そのものと直結したものであったにせよ、そこに、純度の高い金属の生産という、いわば美くしく純粋なものを求める科学者の念願に結びついていたように筆者には考えられるというのは、決して理由のないことではない。息子もまた純粋なものを求めたからである。


愛の人

 石田英吉は、千葉・長崎・高知各県知事を歴任し農商務次官を勤め、貴族院議員に選ばれ、男爵を授けられたが、八弥が大阪精錬所長に就任する前年の明治三十四年に死に、八弥が襲爵した。
 昭和六年、東京に三菱鉱業が鉱業研究所を開設、初代所長として転勤するまで、八弥は大阪の精錬所に近い社宅に住んだが、大正天皇即位のあと、工学博士の学位を贈られた。
 ともあれ一貫して新技術の先端を歩いた彼は、勤勉な技術人でもあった。精錬所近くの社宅に響いてくる機械の音がとだえると、深夜でも必ず目をさました。その時間が少し長びくと、提灯を持って現場に出かける後姿は、娘たちに印象深く残された。
 温厚な八弥は、愛情のこまやかな人でもあり、その父と理知的な母に守られた家庭は、娘たちにとって、他のどこの家庭より平和で幸福な家庭であった。長女すま子(横山助成未亡人)はその思い出とともに、あまり勤直すぎて、ユーモアさえ通じない父を、"玉の盃、底なきが如し"と娘たちが囁き交わしたことを伝えている。

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 奈良家の養女となってから小田島家に嫁した義姉のハツを、八弥は実の姉以上に礼節をもって遇した。阿部胡六はその事実を「八弥はまったき愛の人でした」と表現する。
 研究所長就任後四、五年で健康をそこねた彼は、大正十四年三月、六十三歳で世を去った。墓は京都黒谷にある。
 だが、高級官僚の養子となり、華族を継ぎ、学位をもった大会社の高級社員として、豊かな生活をおくった八弥にとって、通常でない事件が起きたのはその死の前年であった。


非マルクス唯物論者

 明治三十六年六月、石田家にはじめての男の子が恵まれた。英一郎である。大阪で中学三年までを過し、父八弥の転勤で、天王寺中学から東京府立四中に転入した彼は、四年修了で一高文科に進学した。
 大正九年九月、大正デモクラシーのまっただ中で、この俊英を以て鳴らした学生は"純粋に生きること"を念願としたと自ら書いている。以後数年の学生生活は、日本学生運動史の中核を占めるものとしてもはなはだ興味深いが、ここでは簡単にふれることにしよう。
 当時東京帝国大学に組織されたばかりの新人会から、優秀なオルグが一高の小さなグループとして活動していた社会科学研究会の拡大を図り、働きかけを始めていた。
 オルグは、温厚端正で、成績がよく、教授にも級友にも信望厚かった英一郎を説得して、仲間に入れることに成功した。一高の研究会は、英一郎らの運動と信用とによって二百名近いグループに成長したのである。
 こういう背景の中から彼は、河上肇教授を慕い京都大学経済学部に進んだのであった。河上博士はマルクス経済学の研究はしていたが、共産党員ではなかった。京大では大正十一年十一月七日のロシア革命記念日の夜、学生連合会がひそかに発足したが、やがて京都大学社会科学研究会と改称し、河上教授や、大原社会問題研究所の櫛田民蔵ほか、東大出身の同志社大学教授らを招いて、高度な理論研究に入っていた。
 ある日、河上、櫛田両氏も列席した研究会で、英一郎が行なった研究発表の態度は、彼の学問の生涯の姿を端的に示すものと考えられる点で重要である。
 同志社大学総長だった住谷悦治の伝えるところによれば、その日、河上肇や櫛田民蔵を迎えて研究発表をした英一郎は、マルクスの『経済学批判の序文』にある「唯物史観の公式」の中の、マルクシズム思想の核心問題である下部構造と上部構造の一問題をとりあげ、「彼の社会的存在は、彼の意識を決定する」という公式の、決定される被制約的観念形態――イデオロギーの部分で、マルクスが法的、政治的、宗教的観念形態と一々あげながら「経済的意識」ないし「経済的観念」形態をあげていない理由、それに唯物史観では自然的環境を観念形態の決定者として採用していいのかお教え願いたいと迫ったのである。
 その日の英一郎の態度は、まことに立派なものであった。ここに彼の文献精読の強さと、観念的理解に満足しない反骨またはアマノジャク精神が如実に現われはじめる。彼はこの頃既に、弁証法的思弁の方法と唯物史観をしっかりと身につけ、マルクスそのものから学んだ「人間の社会には、絶対不変の真理は存在しない」という真理を学びとっていた。彼がマルクスの経済学院を受け入れなかったのは、そのためであった。


石田のバカ息子

 当時日本は、しょう介石の革命軍の蜂起を口実に対支干渉に乗り出し、以後の傾斜に向って、宿命的な崩落を開始していた。反対民主勢力を押えるため、大正十四年四月治安維持法が公布され、翌年一月から四月まで、全国の学生運動をも弾圧する事件が京都を中心に起った。
 日本の学生運動史上最も華々しい事件であるこの大検挙で、男爵・石田英一郎は、治安維持法違反のほかに、唯一人不敬罪を加えられ起訴されたのである。
 《赤い鳥》という童話の雑誌を持って歩いて、共産主義だとして検挙された人もいる時代である。英一郎は検事に「国家権力をもって思想を弾圧せずに、悪いとする理由をあげて反論せよ」と迫る。検事があわてて「悪いとは申しておりません」と答えるほど、この維持法は政治的・軍事的なものであった。
 英一郎はその年の五月、京大を退学し、父の死後、親類のたってのすすめでいやいや継いだ爵位をこんどは自分の意志で返上した。はっきりしないがたぶん翌年五月以後、彼は十ヵ月の禁固刑を宣告され、控訴して保釈された。

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 世間はしかし石田のノラ息子とかバカ息子と呼んでさわぎ立てた。ちょうど、祖父英吉と志を同じくし行を共にした土佐の勤王の志士土方伯爵の孫の与志が新らしい演劇の運動をはじめ、華族の仲間で土方のノラ息子と呼ばれたの同じであった。
 大事な長男が、治安維持法違反第一号にあげられ、邸は家宅捜索され、あまつさえ投獄、男爵まで返してしまったのだから、母裕子の苦しみはどんなであったか。息子とうるさい世間のあいだに立って、茶や装身具の類を断ったというのも時代が時代であったからであろう。
 英一郎は、三・一五事件で再検挙され、五年の刑を宣告された。特高資料では、三・一五の一カ月前、日本共産党に入党したことになっているが少しあやしい。


ニコライ・ネフスキー先生

 大阪外語と京大でロシヤ語を講じていたニコライ・ネフスキーは、ペテルブルク大学で革命運動家として活躍し、革命以前に日本に来て、日本婦人と結婚していた学者である。
 砂漠のように味気ない、苦悩に満ちた生活を送っていた英一郎にとって、週一回の午後この学者のロシヤ語の教室はオアシスそのものであった。この若々しい、広く高い学識と魅力ある人格は、英一郎に「私はネフスキー先生の最もよくできる学生であった」と言わせているほど彼を索(ひ)きつけた。
 はからずもその人が、柳田国男や折口信夫の集まりで、若くして頭角を現わした民俗学者で、すぐれた琉球民俗学の権威でもあることなど、英一郎は知らなかった。ネフスキーはまた西夏語やタングート語の研究で有名な言語学者でもあった。英一郎が柳田国男や折口信夫の名を知ったものも、ネフスキーの口を通してであった。
 やがて、昭和初年までの日本民族学の文献のすべてを精読した英一郎は、雑誌《民族》に三回にわたり掲載されたネフスキーの宮古島での研究成果「月と不死」を読み驚嘆する。英一郎が後に比較民族学の論文として書いた「月と不死―琉球研究の世界的関連性によせて」を巻頭におく名著『桃太郎の母』の扉には<この書をニコライ・ネフスキー先生にささぐ>と記されてある。
 ともかくも、終生忘れ得ない思想上の悩み、それにからむ幻滅や家庭の束縛、生活の矛盾の中で、ネフフキーの数室や家庭への出入の時期と重なって、二回にわたる中国への旅を彼は持った。この旅行を彼は「中国との出会」として書いているが、不思議なことに長姉の横山すま子は知らないと言うのである。英一郎にはそうした行動のすばやい面があった。
 大正十四年、父の八弥がこの年の三月に死んだことは先に書いた。その年の夏休み、彼はひとり満州、河北、山東の旅をし、中江丑吉や鈴江言一を足繁く訪ねた。北京の街ではネフスキーにも出会い、学生運動家と語り合った。
 学連事件の保釈中、昭和二年の二月から三月にかけて、神戸を船出して、台北―福州―上海に渡った。蒋軍が上海に迫っていた風雲の中国大陸を、彼は船で上海から長江をさかのぼり、漢口・武昌にまで行き、ひそかに長崎に帰港した。
 二回の旅で彼は、中国革命を、革命の将来を、中国の民衆の底知れぬ潜在力と広大な国土とを、身をもって感じ取ったのである。


民族学への道

<暗い谷間の時代>と自らいう刑務所の中で、彼はマルクシズムとは無関係という口実を作って、こともあろうにモルガンの『古代社会』と禁書であるフレーザーの『金枝篇』の原書をとりよせ精読した。彼の民族学が多分にフレーザー的なのは、そのためであろう。当然のこととして、そこでの生活は絶望的でさえあったが、彼は読書と思索をやめなかった。中国の古典から古事記、日本書紀に至るまで、後の民俗学の基礎とならなかったものはない。
 昭和九年、刑を終えた彼は、先輩の民族学者岡正雄の紹介で、大民俗学者柳田国男の姪を母にもつ岡村千秋の娘布佐子を知った。岡村千秋は「郷土研究社」という出版社を経営していたが、その娘の布佐子は、幼少の頃から岡村家に出入りしていたネフスキーを覚えているという因縁があった。石田八弥の才子はまた、佳人とめぐり会ったのである。昭和十一年の春であった。翌年二人は神戸の港から、息苦しい日本を離れてヨーロッパに旅立った。
 英一郎はオーストリーの都ウィーンの大学に入学した。哲学部民族学科である。この大学にはまた有名な民族学研究所があり、いわゆるウィーン学派のW・シュミットをはじめ、コッパース、ハイネ=ゲルデルン、メンギーン等の諸大家がいた。英一郎は勉学と思索に励み、布佐子もまたこの古き緑の都を愛した。一人娘の佐保子も生まれた。英一郎の生涯にとってはじめての安らぎの時間がそこにはあった。だがヒットラーがオーストリアを併合するという事態となり、二年間で研究生活を切上げて引揚げるほかはなかった。

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 帰国した彼は学士院の東亜諸民族調査委員会嘱託として、はじめて月給をとることになった。戦争はますます苛烈になり、狂った日本の精神状態は英一郎にとってはとうてい許せない状況となっていった。なによりもいつ検挙されるかわからない。「最前線へ疎開しよう」と夫妻は幼児を連れて、蒙古善隣協会の西北研究所の副所長とし、華北から蒙古高原に通じる交通路に当る張家口に向った。所長は生態学者で探険家でもあった今西錦司である。
 赤い地肌の胡沙吹く街で、彼は何を考えていたことだろう。だがソ連の参戦によって、ここも早急に引揚げねばならなかった。一年ばかりの北京での生活の後、姿を変えた故国に再び舞い戻る。
 東京で新築した家は蔵書もろとも灰となっていた。不自由な生活の中で、彼は昭和十九年に筆を起し、次々に補足発展させていった『河童駒引考』を世に贈った。柳田国男の民俗学を吸収することによって、柳田が発掘しその意義を明らかにしたささやかな日本の片田舎の民間伝承を材料に、同じモチーフが世界の広い地域に存在することを、驚嘆に価する精力的な検出と分析によって文献を引用し、それが比較民族学的、世界文化史的研究方式の樹立に向って無限の発展を遂げる課題として存在するものであることを証明したのである。まさに画期的力作であった。
 これは柳田民俗学とは異なる第二の民俗学でもある。柳田を先達とする日本民俗学の成果が、比較民俗学と正しく結びつくことによって、われわれが少年の頃学んだ桃太郎や一寸法師の物語りが、はるかユーラシア大陸の旧石器時代文化と社会組織に関連することを立証する見事な理論の展開は、その世界的な視野においても、鋭い立証の科学性の点でも、全く従来の、やや逃避的で排他的で趣味的な日本民俗学界の水準からはるかに高く飛翔する鳳鶴といった感じである。


大学教授として

 昭和二十三年法政大学文学部教授に迎えられ、二十五年日本学術会議会員に選ばれ、南山大学の教授を兼ねた三年間が彼の最も純粋な学的活動の期間であり、次期の発展期の土台となる期間でもあった。新鮮で、異端で、常に彼は前進を続けたように筆者には思える。
 昭和二十六年東京大学東洋文化研究所教授に就任の翌年、一年間にわたるヨーロッパ・南アメリカヘの出張は、十年余をへだてていた外国の人類学界のその後の進展や変化を知るためにも、彼自身の学問の正しい方向をたたかめ得た点でも意義深いものであった。昭和四十二年に出版された名著『文化人類学ノート』の復興版の口絵に、昭和二十七年ウィーンで開かれた国際人類学・民族学会議でのシューミットやハイネ=ゲルデルン、コッパースの写真が掲げられているのを見ても、その一端がわかる。
『文化人類学ノート』は、この外国出張のあとに出版されたのではあるが、日本の学界や大学に常にある、無批判的追随や妥協に対する強い批評に満ちている。その新版の序に掲げられた彼の文章の一部を、終生貫き通した批判的精神的姿勢を示すものとして引用してみよう。
「学問以前、または学問以外の立場や事情から学問の世界に加えられる意識的・無意識的の圧力に対する抵抗、したがって一切の狂信と権威主義=教条主義に対する懐疑と異端の精神の擁護」
 昭和二十八年、東大総長矢内原忠雄が教養学部に文化人類学の講座をおく考えを明らかにした。しかし、東大には古い歴史をもつ、理学部人類学教室がある。そこの大御所で有名な頑固じいさんでもあった長谷部言人の「矢内原がけしからん」という憤慨の間に立って、英一郎の学科創設の苦悩はすさまじいものであった。配属された教官たちと協力して、ともかく講座を開設した。その後昭和三十三年、東大は第一次アンデス学術調査団を組織し、南米のペルーやボリビアなどに送った。が、いっぽう中米の彼はその団長として彼地にわたり、マヤ文明についての研究をはじめ、インディオ古文化に深い関心をよせた。
 三十七年の八月から翌年にかけての一年余、彼はハワイ大学東亜センターからメキシコに出向した。

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 昭和三十八年暮、東大の定年を一年のこして彼は東北大学文学部日本文化研究施設教授に配置転換となり、仙台に移った。
 昭和三十九年の夏には、モスクワで開催された第七回国際人類学民族学会議に出席、ついでスペインでの国際アメリカニスト会議にも連なり、ヨーロッパ各地を廻って帰国したが、これが彼の最後の海外行となったのである。
 仙台で再び彼は日本国家の起源について、その後の研究者の学問の進展をとり入れたシンポジウムを開催する。と共に彼は次第に、学者以外の一個の思想家、文明批評家として日本の論壇に特異な頭角を示しはじめたのである。のちまとめられた『東西抄』『人間を求めて』等の好著に覗える彼の姿は、その思想性よりも、生真面目な、永久に年をとらない人間石田英一郎の姿を正真にさらけ出しながらも、彼の"暗い谷間の時代"の前後にはじまる人間形成の過程を示してくれる。そこには、果しつくせなかった彼の念頭がやはり異端で、アマノジャクな彼の本性に密着しながら「独学」に終始した自由なその思想の変遷をみせることの面白ささえある。
 仙台で定年となり、埼玉大学の文化人類学の教授に迎えられた彼は、その後多摩美術大学々長に就任した。
 日本で初めて開かれた、第八回国際人類学民族学会議が終了してまもないある日から突然に疲労を感じて診察を受けそのまま急患として入院。全く著るしい兆候などなかったガンが、特殊なケースをたどって急速に悪化、昭和四十三年十一月、石田英一郎はその波乱に満ちた生涯をとじた。


枯れたユーモア

 彼は無口で、物静かな人であった。体力に恵まれ、多忙な時間に区切られた日常をてきぱきと動きまわる反面をもっていた。通常は温厚であっても、その論敵には容赦しなかった。他を羨望したり、自らを卑しむことを何より軽蔑した。彼の文章を読むと、学問上の批判の文章の中に用いられた鋭い言葉のかげに、実は一寸ひとをからかうような枯れたユーモアが漂っているように感じられるのはなぜであろうか。
 それはたとえばデパートのエスカレーターがすいている時、その上を大急ぎで駈け上り、また後向きに水車をふむように降りてみせたりする芸当も心得えていたという彼の不思議なおかしさにも通じる。
 ともあれ、石田英一郎には、他の学者とちがったある恵まれた一面がある。それは、そのあまり厚くもない著者のいく種類が、どれも複刻されていることである。たとえば『河童駒引考』や『桃太郎の母』の名声は当然ながら、そのエッセイにしても版を重ね、書店を変えていまだに続いている。
 そのことはその本の面白さ、重要さよりも、文面からにじみ出る彼の人間的魅力に原因があるものと思われる。
 ここでとくに注目されるのは、弁証法的唯物論者としての態度である。彼のマルクシズム批判は、歴史学の方法としての唯物史観と絶対視する群小マルキストに対する高度な批判であった。とくにアメリカ人類学の文化理論で、マルクスの学史的遺産としての意義が全然かえりみられない時に、マルクスの貢献を正当に評価したのは、フランスの大学者レビ・ストローズと石田英一郎だけであったといえる。
 彼のマルクシズム信奉者に対する批判のもう一つのかたちは、生来のアマノジャク精神によるところもあるが、「科学は異端と自由討究の精神の失われないところにのみ発達する。もともと異端の精神に出発したマルクスやエンゲルスの書も」――それがバイブル化しない限り彼にとって新鮮であった。
「科学の仮面にかくれこの新鮮な《異物》の若芽をつみとろうとする一切の権威主義に対して、それが神の名においてなされると、進歩の名においてなされるとを問わず、今後あくまでも抗争をつづける」とする反骨の精神でもあった。反骨と異端の精神は祖父の英吉から、純粋を求める心を父に、そして理知的な聡明さは母から受けついだ彼の血であろう。そして布佐子夫人の愛が、ありのままの姿勢の彼を守り続けたのであると筆者は考える。
 われわれが彼に学ぶ永遠の姿勢は、いつでもどこでもものを「考える」ことである。思想も主義も学問も、決して考えることを妨げない。彼はいま東京中野の宝仙寺の墓地に眠っているが、それは眠っているのではなく、考えているのである。――と言えば彼は叱るだろうか。常に言っていたように「そう断定するならば、確かな証拠をあげて教えていただきたい」――と。



おくやま・じゅん・地質技術者・詩人・考古学者。詩集二冊・詩と評論誌「密造者」編集者。考古学の論文数編。
大正八年秋田市生・大館市在住

タイトルカット…更科源蔵(詩人)