碑の周辺 (8)

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駿霊塔と桂馬会
 〜ダービーに賭ける   土田荘助の栄光と競争馬生産に励むその継承者たち〜

県内屈指の大地主

 平鹿郡大森町。市街地の西郊に小高い菅生田の山地一帯は、土田農場と呼ばれている。所有者は、雄物川をはさんで隣り村の大雄村宮田字下田町の土田家で、大森町役場の現在敷地も、じつは土田家の地所。
 土田万助、明治二年生まれ。県会議長や貴族院議員も歴任した県下屈指の大地主で、横手から本荘へ結ぼうとした横荘線を沼館の有力者塩田団平とともにお互いの居村・沼館─館合へ、鍋のツルのように迂回させた話は有名、"団万鉄道"の異名が起こった所以(ゆえん)である。
 昭和十七年六月十五日、七十三歳で没。平鹿郡教育会長としての功績を讃えた頌徳碑が建てられている。
 土田荘助、万助の長子で明治二十一年生まれ。県会副議長から衆議院議員となったが、むしろ馬産─それも本県では珍らしい競馬馬の作出者として知られた。父万助とほぼ享年を同じくして昭和三十七年八月二十五日に死去。


白天園牧場

 荘助その人の業績を顕彰する碑はないが、かわりに荘助の手によって建てられた名馬の碑──駿霊塔というのが、菅生田の土田農場地内に建てられている。そこに刻まれる名は第八アストニシメント号、かつてはクインマリーの名で幾多のレースに活躍した名馬であった。
 荘助が日本競馬協会の委嘱を受けて購入した英国産のサラブレッドで、土田農場で十六頭の子を生み、二十五歳で昭和七年に死んだ。碑はこの時に、墓碑として建てられたものである。 
昭和七年といえば、この年四月二十四日に、東京優駿競走の名で、いわゆる第一回の日本ダービーが行なわれている。そして昭和九年の第三回ダービーで土田農場の産馬であるフレーモアがみごと優勝し、土田荘助の名がいちやく全国に知られたのであった。
 今は多少の耕地と山林とになっている土田農場は、戦前までは白天園と呼ばれる牧場であった。この牧場開発は、凶作にあえぐ農民の救済のため土田家が、労賃に自米を与えて行なったものといわれている。
 荘助は、生来馬好きであったのだろうか。ともかく明治四十三年、当時政治面で忙しい父万助にかわって地主としての経営に当っていた二十二歳の彼は、樺太、北海道産業調査員として現地におもむいて以来、四十五年ごろから小規模ながらも家畜をとりいれている。牧場経営が本格化したのは大正に入ってからで、主馬寮から多賀一や、のちの"馬術将軍"遊佐幸平を招いて指導をあおいでからであった。


阿気の草競場

 大正二年、大正天皇即位記念として大上(おおあげ)競馬倶楽部を創設し雄物川畔の阿気(あげ)地内(大雄村)に競馬場をつくって草競馬を開催した。阿気の地名に縁起よく語呂をあわせて大上としたものだろう。本県の競馬として一般に親しまれた"八橋競馬"よりはずっと先輩で、常設のものとしては草分けである。
 古老の話によると

阿気には土田家の隠し田があり、その収益を草競馬につぎ込んでいた

そうだが、ずいぷんに豪気な催しものだったらしい。毎秋一回、二日間の催しのため貴賓席として二階スタンドのある建物も建てられていた。大正十二年、競馬法ができて馬券の発売が許可されると、ここでも馬券が売られた。近在はもちろん、遠来のファンでものすごい人出だったと、今も土地の人々の語り草になっている。

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 荘助の産馬は、もちろん草競馬が目あてではない。草競馬で地域の産馬欲を刺激しながら、みずからは中央競馬の檜舞台を目ざして、ひたすらサラブレッドの生産にはげんだ。北海道の牧場や小岩井農場をいくども視察したうえ、主として小岩井農場から優秀な外国系の種牡馬や牝馬を何頭か買入れて、白天園は形を成していった。
 大正八年、県の渡辺勘之助技師がアメリカに渡って種牡七頭(ただし輓馬)を購入した時、荘助は自費で同行して見聞をひろめている。


日本ダービーに優勝

 さてダービーであるが、発祥地英国では日本より百五十年も古い歴史があり、創設者ダービー卿の名にちなむ明け四歳牡馬による最大賞金のレースである。またダービー卿夫人のニックネームにちなむオークスという四歳牝馬のレースがあり(日本では優駿牝馬)、これと菊花賞、皐月(さつき)賞、桜花賞といった日本の四歳馬による重賞競走は、すべて英国の、四歳を中心とした五大クラシック・レースのひそみにならったものである。
 最初の日本ダービーは目黒競馬場で、二回目からは府中に移された。当時は、下総御料牧場と岩手の小岩井農場が日本の二大牧場で、第一回は下総のワカタカ、第二回は小岩井のカブトヤマが優勝していた。どの個人牧場が、いつ、二大牧場を打ち破るかは、競馬界の注目のマトだったし、民間生産者はそのために大きな野心を燃やしていたのである。
 そして早くも──その日の朝の調教で、本命のユートピアモアが前足を捻挫して出走取消しがあったとはいい──第三回で、宿願は土田荘助のフレーモアにより達成されたのであった。騎手は大久保亀吉、調教師は尾形藤吉で、二馬身半差の二着テーモアと三位デンコーと、上三位までを尾形厩舎が独占するという快勝であった。
 尾形藤吉といえば、明治三十九年に馬匹改良は武備の要素たりという趣旨で政府が肩入れをして第一回東京競馬がはじまった直後に騎手とたり、まさに日本の競馬の歴史をそのままに生きてきた人で、今日"尾形天皇"の名で君臨しているが、土田荘助とは生涯強いきづなで結ばれていた。


荘助と尾形厩舎

 フレーモアは、荘助が英国から購入したアステリアに、小岩井農場の名種牡馬シアンモアを交配してできた馬である。この一年間に出走十四回、うち優勝七回、二着三回、三着三回の成績をあげて賞金五万三千二百五十七円(付加賞とも)をかせいだが、翌五歳の二月、調教中に右前肢を脱臼して競走界を引退せねばならなかった。
 のち北海道の伊藤牧場に種馬として売られた。その子に、第九回ダービー七位のホウカツピーターがある。
 土田農場の産馬で日本ダービー出走馬としては、ほかに第七回のアステリアモアとイガヒビキ、八回のバロンモア、十一回のブレーメロがある。アステリアモアは、現在も活躍中で昭和四十二年までの勝利度数千百四十一回というレコードを持つ保田隆芳(尾形厩舎)が騎乗し、第三着入賞であった。
 こうした実績から、土田荘助は昭和十五年に日本競走馬生産者協会の会長に推されている。

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伝統を継ぐ桂馬会

 川面を渡ってくる秋風は、肌にひんやりと、心まで引締めてくれるようだ。早朝五時は、いかに朝の早い農村でも、まだ半ば以上、とばりのうちである。
 ここは平鹿郡雄物川町下開(したびらき)の雄物川原である。白いモヤの中から、何やら黒い物体が急速に現われて、それが一頭、二頭、三頭……と、やがて馬のかたちを示めす。すらりと足の細く長い、今まで地方ではあまり見かけることのなかった馬だ。
 パカッ、パカッ、パカッと冷気をふるわすひずめの音。農耕馬がまったく姿を消してしまった昨今の農村で、それは異様な活気をおびて、ことに、むかし馬を飼育した中年以上の人々の郷愁をよびさますのだ。
 七時まで二時間、びっしり馬の訓練に励んでいるのは、同地の福田昭吉さん(三七)をリーダーとする桂馬会の人たちであった。競走馬の生産という、めずらしい農家の副業を考え出し、実行し成功し、今後の成長が楽しみなグループである。

 福田昭吉さんは、近くの大上競馬場へ幼い時から父親の手にひかれて、よく通ったものだった。子ども心に騎手へのあこがれが芽生えたのだろう、戦後競馬が復活すると、十五歳で騎手の試験を受けてパスしている。
 大上競馬は、県内の競馬では最後まで生き残ったが、二十九年に息を引きとった。その後は岩手県の水沢競馬や福島競馬で腕をみがき、調教の技術もマスターした。自分の持ち馬で入賞したこともある。青森から発育おくれの二歳馬をひきとって磨きあげたものだった。
 もちろん、本業は農業である。だから一家の主人として田園に帰ると出かせぎしなくともいい農業経営について、真剣に考えた。稲作プラス……養豚、養鶏と思いをめぐらした末に、たどリついたのは競走馬の飼育であった。最近の競馬プームが、かつてその世界に身をおいた福田さんの心を捉えてはなさなかったのである。三十九年のことであった。


雄物川原の調教師

 隣り同士、伊藤昭一(三五)、吉田勇一(三四)、吉田政一(二四)という三人の仲間ができた。最高三ヘクタールの水田を耕作する農家の中竪たちばかりである。
 農協から百万円借りた。あとは各人の能力に応じて合計五十万円を出資し事業はスタートした。福田家の裏庭が厩舎で、まず名古屋競馬からアラブ系の牝馬を二頭買いいれた。子とり用の馬というのは、実際の競馬で優秀な成績をあげながら、怪我などのために走れなくなってしまった馬である。経歴も、血統も、一目瞭然である。
 翌年、農林省から種馬の貸付けを受けた。そして三年目の三十九年には、待望の子馬二頭の誕生をみるにいたった。二頭とも、関西競馬にひきとられていった。
 このモリナオウは、昨年の大阪・春木競馬で、アラブ系のレースに三連勝、コーフロストも二着になった。四人は毎日スポーツ紙の競馬欄に目を通しており、"わが子"の晴れの舞台での活躍に乾杯したが、馬主からも感謝をこめて、優勝のしらせが届いた。以米、桂馬会の産馬は、関西との取引きのルートに完全にのった。

 競走馬の最高は、なんといってもサラブレッドである。アラブなら二歳で百二、三十万円のものが、サラ系など二百万円はかたい。借金返済のメドもつき完全な経営べースをつかんだ桂馬会は、昨年からサラブレッドも導入した。種牡馬もいれ、現在は親馬がサラニ頭、アラブ四頭、それに"商品"たる二歳馬が三頭、当歳馬が五頭という内容である。
 もちろん、血統正しければ子馬が即競走馬、として商品価値を持つものではない。競走馬として登録するには、八○○メートルを五十八秒以内で走ることなど、厳しい能力検定の壁を越えねばならないので、その訓練が大切なのだ。朝夕、二時間ずつ毎日の訓練もそのためである。
 彼らは川原にオーチャードグラスやクローバーを植えて運動場兼牧場に幣備した。北海道や南部地方(八戸や岩手)のような馬産地にくらべ、無名のためにこうむる不当な買いたたきを実績ではねかえそうと、意気たからかである。
 かつての土田農場がダービー優勝馬を生んだように、桂馬会の名が中央競馬の下馬評にはなばなしくあがるのは、いつの日だろうか。