人・その思想と生涯(39)

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工藤祐舜  〜加藤富夫〜

今後二十年の仕事

 理学博十工藤祐舜は昭和七年一月、狭心症発作のため、台北において四十六年の短い生涯を閉じた。

 仕事に必要なもの(書籍)は大体集まりました。膳葉館もこの十一月までには出来ますから落着いて仕事が出来ると思ひます。今後二十年は実のある仕事をなさうと充分な計画をたてました。この仕事を大成するまでは如何なることをも忍耐しようと思ひます。為に心身の安らかな気分に始めてなりました。台湾の植物は実に而面白いのです。蘭科と樟科とに全力を尽して居ります。又たへず北日本の植物にも注意して居ます(原文のまま傍点筆者)

 昭和四年九月三日付、宮部金吾博士(北海道帝大教授)宛ての工藤祐舜四十三歳の書信である。
 前年欧米留学から帰国後直ちに新設の台北帝国大学教授に任ぜられた工藤祐舜は、同時に台北植物園長、台湾総督府中央研究所技師を兼任していた。如何なることをも忍耐しようと書いた、その如何なることの中には、このような立場からくる彼の重責も含まれていたには違いなかったが、しかしそれはむしろ彼の意欲をかきたてる仕事であった。
 何よりも彼を苦しめたのは台湾の気候風土であった。もともと心臓の強健ではなかった彼は、赴任早々一度台中市にて心臓病の軽い発作にみまわれ、当分の静養を医師に勧告されていた。台湾の気候は日本列島に比べてもなお多湿である。高湿多湿の台湾は雪深い北国で生まが、北海道、樺太の凍土地帯で育った植物学者工藤祐舜の身にこたえた。しかも四十二、三歳という身体上の転換期を迎えていたのである。
 だが彼は医師の勧告を無視して仕事に専心した。無視せざるを得なかったのである。仕事に必要なものは大体集まりました――あしかけ四年の欧米留学中に収集した文献資料も彼の研究室に山と積まれていたはずである。今後二十年の仕事しかしこう書信に書き綴った彼には、この時僅か二年半足らずの年月しか残されてはいなかったのである。




 ここに一枚の写真がある。テムズ河畔、キュー王立植物園の芝生に坐っている工藤祐舜四十歳の時の側面からのスナップショットである。画面が薄く不鮮明なのは当時の幼稚な写真機のせいに違いない。
 大正十五年、日本植物分類学の全盛期を代表した一人の学者工藤祐舜は、今、異国の五月の芝生の上で束の間の休息を楽しんでいる。英国の五月はつぐみ、むくどり、ねこどりの囀る季節である。祐舜の耳にはこれらの小鳥の声が聞えていたが、その時ふと彼の脳裏を故郷の鳥の姿がよぎった。なんの鳥だったか。その鳥は冬の空を渡っていた。鴨だったかも知れないと思う。あれは小学校何年生の冬だったろうか。
 工藤祐舜は明治二十年三月六日、秋田県平鹿郡増田町縫殿に工藤祐哲の長男として生まれた。真宗系襲制東流山通覚寺、祐哲はその第十九代の住職であった。足利末期に南部より山越えしてこの地に移り、ここに寺を開いて五百年近くも庶民とともに歩んで来た名刹である。彼の下に二人の妹と末弟の祐信が生まれた。当然彼は第二十代の住職として寺を継ぐべき立場にあった。幼少年時代の躾は厳しかった。早朝起床、本堂の掃除、朝の勤行、壇家へ赴くこともしばしばであった。

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 小学校の同級生であった北村豊吉は後年述懐している。

博士も遅刻欠席は珍しくなかったのですが、それは他の生徒の如く自分の怠慢や悪戯のためではなく家事上のためであった

また一年生から四年生まで担任だった梅沢多計(横手)は

多数の児童のその中に品行秀抜学力優等にて始終賞に預られました。四十年間教育に従事し幾干人の児童に教鞭をとりました事なれど工藤様の如き温厚篤実にして在学中友人と口論をなしたる事もなく、却って劣等生を憐み休み時間に教へて下さる程の御親切な御方はございませんでした

と回想している。
 父祐哲は僧職のかたわら押し絵に凝り、制作にかかると倉の中に閉じこもって二、三日出てこないことがしばしばであった。母は記憶力にかけては群を抜いていた。
 祐舜が飛行船の夢にとりつかれだしたのはこの頃であった。飛行機はまだ日本の空には現われていなかった。冬空を渡る一羽の鳥。
 人間だって飛べる。きっと飛べるというのが、彼の口癖になった。彼は中学校四年の時、飛行船建造論なる一文をものして某大学教授に送ったほどであった。


めぐり合い

 不思議なものだ、とキュー王立植物園の芝生の上の工藤祐舜は思う。飛行船を夢みた自分は、一転して植物学に明け暮れることになった。つぐみの瞬ずる英国の五月の空に、宮沢運治先生、それから宮部金吾教授の顔が浮んでいる。めぐり合いという言葉が祐舜の胸中をかすめた。
 明治三十四年春、彼は秋田県立第三中学校(横手中学校、現横乎高校)に第三期生として入学した。この学校で宮沢運治にめぐり合い、このことが祐舜が植物学に志す重要なきっかけとたったのである。強度の近眼鏡をかけた宮沢運治は、蜻蛉の複眼のように焦点の定まらない眼で小柄な体躯を忙しく動かし、口角泡をとばして植物を講じた。彼はたちまちこの教師に傾倒した。
 現在でも全国二番目を誇る広大な校地を持つこの学校は、また四季折々の豊かな動植物に恵まれていた。寄宿舎に泊っていた祐舜は、土曜日の午後と日曜日には決まって宮沢先生と植物採集に出歩くのが常となったのである。彼は背丈の高い方で、色白の面長、歯並びがやや悪く、少々出歯であった。服装には無頓着でズボンが切れてもポケットがほころびても、爪が伸びても平気であった。
 紳名はジャンピングといった。採集籍を肩から吊り下げていない時のない祐舜の上衣の肩は擦り切れていて(それを級友はよく椰楡したのだが、すると彼は詩を吟じながら飛鳥のように姿を匿してしまうのであった。その動作がまるでバネ仕掛のようで、それがこの綽名になった。

 工藤はまた、あの不細工な箱を持ち回って今日はどこへ行ったのだろう。物好きもあそこまていけば病膏育だ

とわらったが、当の工藤君は馬耳東風であった、と当時の同級生一佐藤清治(増田町)は記している。また宮沢運治は、しかし彼が三年生になろうとする三月に退職し、数年後に死去した。

 宮沢看は一にも工藤君、二にも工藤君と言うて、植物園その他植物に関することにはあたかも工藤君を助手の如くにして使った。後任の植物教師も植物園の経官などはほとんど工藤君に任せる姿だった。工藤君のあの熱心さとあの真面目で進んだならば、博士の学位を得るは疑いないなどと人々は言いあうようになった。はなはだ遺憾なのは、工藤君の博士の学位を得たのを兇ずして宮沢君の死去したことである。もしそれを知ったならばどんなに喜んだことであろう

 と当時の同校教諭細谷則理は書いている。
 宮部金吾博士との絆が結ばれたのも、この時代であった。宮部博士は『故工藤祷舜氏の伝』なる小文の中で次のように記している。

 君は既に中学在学中より植物学に興味を有し、盛んに郷土地方の植物を採集せり。而して採集中、学名不明の標本を余のもとに送附せられ、屡々その不審を正し、鑑定を乞れたり。余と君との文通による友情は既にこの時に結ばる。君が後年分類学界へ示せる覇気は横手中学在学中よりうかがはれ、一中学生の身を以て、海外各所の植物園、博物飴との標本の交換をなし、当事よりシンガポール、オーストラリア、ブラジル、ナタル等の標本を所蔵せり(原文のまま)

 宮部金吾は札幌農学校(北大の前身)において内村鑑三、新渡戸稲造らの同期の、日本植物学界の草分けであり、一世の碩学であった。祐舜の探求心が遂に宮部博士を得、宮部博士こそが工藤祐舜の生涯を決したのである。

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出発

 六年の昔、先生のたまへる御書信を思ひ、思はず感涙を催し候。思えば三十九年の六月、小生の鹿児島高等学校入学を拒みし拙父が、先生の小生に賜ひし御書信を見、直ちに意を翻して小生を鹿児島に送る事と相成りし当時を回顧すれば、転た感涙を禁ずる能はず候。小生今日あるは実に先生の御賜と深く感謝の至りに堪へず候  (原文のまま)

 明治四十五年六月、東京帝大理科卒業に際して生涯の師宮部博士に送った祐舜の書信である。
 明治三十九年三月、横手中学校卒業後、彼は宮部金吾のいる札幌への遊学を志ざしたのであったが、宮部は逆に、植物分類学専攻には東京帝大理科に入学すべきだと彼を説得した。祐舜はその忠告に従って、まず鹿児鳥第七高等学校造士館に入学したのである。
 寺を継がせるべき長男である。父祐哲は頑強に反対したが、宮部博士の書信によって翻意したのであった。
 日本列島長南端の鹿児島は、当時は蓬かな異郷であった。出発に際して祐哲は長男の祐舜と水盃を交した。祐舜十九歳の六月であり、末弟祐信はまだ十歳にもならない子どもであった。嶺浜から乗船し、鹿児島までは数日を要した。

 入学早々彼は屋久島に採集を試みている。さらに四十一年夏には、二か月間同島に滞在して徹底的な採集に従事した。屋久スギの原生林に蔽われ、本邦一の降雨量を記録するこの島は、ガジュマル樹林をはじめ、亜熱帯植物の豊富な、しかも日本列島のほとんどの植物がここに集まっており、あたかも自然の博物館のようであった。この採集の結果にもとづき、祐舜は独文をもってその植物地理学的研究を起草している。
 造士館卒業後、宮部博士の忠告に従って彼は明治四十二年七月、東京帝大理科大学植物学科に入学、植物分類学の権威、松村任三教授の下で分類学を専攻した。卒業論文は『本邦産双形科植物』であった。
 明治四十五年七月、卒業式が明治天皇の行幸を仰いで挙行された、後年祐舜はこの時の感激をよく口にしたものであった。明治天皇は同七月三十日逝去し、この時が最後の行幸とたった。明治時代が終ったのである。祐舜二十五歳。二十五歳の午まで成長するという俗説に従えば、祐舜は奇しくも明治のこの最後の年に一個の人間としての人格形成を終ったのである。

凍土を渡って

 抑北樺太ハ極北酷寒ノ地ニ属シ天恵極メテ少ク加フルニ交通不便人煙稀薄古来全ク異域トシテ顧ル者ナク況ヤ科学ノ研究ノ如キ殆ント度外視セラレ露国統治時代ニ在リテモ僅カ一植物学者ノ亜港附近西海岸ノ一部ヲ踏査シタルト地質学者数名ノ東海岸方面油田ノ調査ヲ為シタルニ過キス而シテ其実地踏査ヲ為サントスルヤ十数名ノ調査隊ヲ編成シ数十日間所要ノ糧食卜野営執務二要スル天幕其他ノ陳営具ヲ悉ク準備携行セサル可ラス而モ河川ヲ徒渉シ道路ナキ山野殊二雑草荊辣ノ叢族ヲ践渉シ凍土地帯ヲ横断シ加乏夏季野外ニ於ケル蚊虻群ノ襲来ニ堪工森林中二猛獣ノ足跡ヲ踏ンテ調査ニ従事セサルヘカラス其労苦ト危険トハ到底内地人ノ想像シ得ル所ニアラス

 大正十三年、『北樺太植物調査書』刊行に当って、依嘱者北樺太軍政部よりの工藤祐舜に対する感謝状の一節である。さて、師宮部金吾が工藤祐舜東大卒業を機に、ただちに彼を専任助手として採用したのは大正元年八月のことであった。東北帝大農科大学(現北大)実科講師として欣暮雀躍渡道したことはいうまでもない。
 宮都博士はすでに北海道フロラ(植物相)の調査に三十年の歳月を費やしていた。祐舜は助手として師の下で、師とともにこの調査に精根を傾け、かくして四十六年の短い生涯のうちの三分の一、学者としての二十年の年月のうちの半分以上にわたる十三年間を札幌に過し、その間助教授に昇格し、樺太、千島の植物調査にも関係した。
 この期間の彼の業績は枚挙にいとまがないが、大正八年から続行中の宮部博士との共著『北海道主要樹木図譜』を別にしても、主要なるものを挙げると『北海道薬用植物図譜』(大正十年。北海道庁の依頼により、道庁技手須崎忠助との共著)『日本有用樹木分類学』(大正十一年)『北干島幌筵島植物誌』(大正十一年。これによって東京帝大より理学博士の学位を得た。三十六歳)前述『北樺太植物調査書』(大正十三年。北樺太軍政部の依嘱による)『北海道の植生』(大正十四年)等である。

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 師宮部博士の下でのこの十三年間の札幌時代は、本格的な植物学者としての工藤祐舜を育てあげたのであった。凍土地帯こそ彼の第二の故郷であり、彼は凍土地帯から生まれた植物学者であった。しかもこの時代に彼は第一の弟子を得た、現北大名誉教授館脇操である。彼はこれらの探索に祐舜と行をともにし、卒業論文も祐舜の下で書きあげ、祐舜離札後はその講座を引き継いだ。


僧職を譲って

 キュー王立植物園の芝生に甜坐をかいている祐舜の脳裏を次に過ぎったのは、亡父祐哲と寺を継いでいる末弟祐信の顔であった。宮部博士の書信によって遂に意を翻えし、水盃を交して自分を鹿児島へ出発させた時、父は自分に寺を継がせることをもあるいはひそかに断念したのではなかったろうか、という思いが、祐舜の胸中にふと湧いた。だが当の祐舜はその後二十年近くのあいだ、調査研究中にも、長男としてやがては増田町に帰って寺を継ぐべき責任を感じつづけていたのである。
 その父祐哲が逝去したのは大正十一年であった。増田町に帰来した祐舜は、この時末弟祐信が立派に成人したのを見届けることができた。祐舜は僧職をただちに祐信に譲ることを決心したのである。彼は自分の生まれ育ったこの寺の境内を祐信とともに散策しながら、寺の長男として躾の厳しかった幼少年時代を回想したが、僧職を譲った今は、心の重荷を下して植物学一つに打ちこめるのだという気魂が満ちてくるのを覚えた。
 五年ほど前に一度結婚したことがあった。だがうまくいかなかった。自分には学問しかない、学問だけだ、そしてそれで十分だと思った。
 のちに彼は末弟祐信を自分の子供として戸籍を直している。立派に成人したとはいえ、十歳以上も年下の祐信は彼にはかわいかったのである。祐信は通覚寺第二十代目の現住職、清酒朝の舞の社長である。

 これでよし、と祐舜は思った。師宮部博士との共著『北海道主要樹木図譜』の仕事も軌道に乗り始めていた。彼は急ぎ帰札した。
 大正十四年、三十九歳。北大に理学部設置の議あり、彼は海外研究生を希望し自費海外留学を出願、同年六月文部俗より各国出張を命ぜられた。だが結局北大理学部設置の議は通過せず、台北帝大理農学部新設に伴って彼は植物分類学講座担当者として迎えられ、同時に留学中のまま台湾総督府在外砺究員を命ぜられた。
 英独仏ソ米、スウェーデンの六ヵ国、あしかけ四年の在留中、各国の植物園、謄葉館に足繁く通った彼は、日本植物学文献カードの不備なることを今さらの上うに痛感し、その訂正整理のための資料収集に専心したのである。今後二十年の仕事おそらくそれは後のライフワークとなるはずのものであったが、その仕事の契機と構想とは多分この海外留学中に彼の胸中にきざしたものであった。
 日本の植物分類学は今やその隆盛期を迎えつつあったものの、比較にならないほど完備している欧米各国の植物園、舜葉(押し葉標本)館、そして調査研究の水準の高さを眼のあたりに見た彼祐舜の胸中には、うつぼつたる志が生まれていたのである。束の間の休息を終えた祐舜は今キュー王立植物園の芝生から立ち上った。

 昭和三年二月、四十二歳の誕生日を目前にして彼はあしかけ四年の欧米留学から帰国した。帰国の客船には同じくヨーロッパから帰国中の東畑精一、鶴見祐輔らが同乗していた。帰国後ただちに彼は台北帝大理農学部教授、台北植物園長、台湾総督府中央研究所技師として台北に赴任した。
 台北における彼の第一の仕事は、翌昭和四年十二月早くも完成した。東洋屈指の謄葉館が建設されたのである。今後二十年の仕事の土台がここに据えられた。
 この期間にも大正八年以来の師宮部博士との共著『北海道主要図譜』完成のために糟力を側け、同じく昭和四年には欧米留学中の一つの結晶である『日本支那産唇形植物の分類』の大著をラテン語で著している。
 五年、生物学本館竣功、勲六等瑞宝章が授けられた。六年、『植物園種子目録』『植物園年報』を公刊した。
 かくして運命の昭和七年は刻一刻迫りつつあった。


幕間―― 一つのエピソード

 俺は役に立たなくなったら、ここへ帰ってくる。帰ってきて、ほらあそこの山の裾、あの桑畑の中に庵を結ぶ。その中で隠居するつもりだ

 再び彼は末弟祐信を伴なって生家の広い敷地を散策していた。台北着任後も招聴講師として時々彼は北海道帝大、盛岡高等農林学校(現岩手大)に出張したが、帰途生家に四、五日滞在するのが常であった。彼はその度に近隣の人々とお茶飲み話に興じ、故郷の世間話に耳を傾け、自らも各地の見聞を告げ、気さくに談笑し、この時はまるで彼が高名な理学博士ではたいかのようだった。

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 近所に彼のアバがいた。幼時に乳を貰ったアバであった。アバ、アパと彼はまるで子供にかえったようであった。僧職を譲った末弟の祐信も壮年に入ろうとしていた。方丈の窓から見ると二人の話は聞えなかったが、祐舜は大柄で、祐信は小柄で、まるで本当の親子でもあるかのようだった。祐舜がまた山裾の方を指さすのが見えた。

 ほら、あそこの山裾、あの桑畑に庵を結んでな、俺はそこで隠居する。


再び"鳥"

 昭和七年一月八日、末弟祐信は突如兄危篤の電報を受け取ったが、踵を接して死去の電報が届けられた。狭心症発作、急死であった。
 告別式は台北および増田町において執り行たわれた。台北帝大総長幣原坦をはじめ、学界、官界、知人友人多数が列席した。遺骸は台北で火葬に付され、骨となって故郷に帰ってきた。山裾に彼の庵は結ばれることがなく、二面の桑畑のままであった。
 生家の墓地に埋葬され墓石が建てられた。逝去の報は天聴に達し、特旨をもって従四位勲五等瑞宝章を賜わった。

 降りて小生壮建にて毎日研究、にいそしみ居り候間、御安心下され度候。扱て十二月八日附御書面右難く拝読致し厚く御礼串上候。植物年報に関しては御親切なる御言葉深く々々御礼申上候。北海道構太植物誌の原稿(双子葉植物の部)は明年一月御送り申上ぐべく候。原稿の脱稿後早や六年と相成り申候。帰朝後名鑑出版後の全日本植物の文献カードの製作を始めやっと本邦で発表せられたるものは終り候。このカードにより北海道樺太植物学名の訂正をなさんと一時考へ候へども、小生が在外中の事でもあり、寧ろ先生に御一任した方がよい様に考へられ候。只小生がパリー発後、海外の■葉館で研究せる所のみを訂正して御送り申上げたしと考へ居り候(原文のまま、傍点筆者)

 昭和六年十二月二十二日付、宮部博士宛。死去十七日前の、これが祐舜の最後の書信となった。
 過日筆者は横手高校生物標本室の抽出しの中に明治三十年代の日付のある既に変色しかかった脂葉標本十数枚を発見し一つの感概に捉えられた。これらの標本こそて当時少年工藤祐舜らが宮沢先生と共に採集したものではなかったろうか。そしてさらに明治四十一年の日付のある鹿児島と屋久島の標本数葉を発見したが、それにはいずれも工藤祐舜書採と明記されてあった。
 横手高校の広大な敷地と曲豊富な自然は当時と変っていない。筆者は上衣の擦り切れた肩から採集籍を吊り下げた若き日の工藤祐舜の姿をこの校地の中に置いてみた。今後二十年の仕事そして四十六年の生涯、だがその跡を振り返ってみる時、そこには荒野の中の一本の道がある。
 それはあまりにも直線すぎるが、彼を駆ってまっしぐらにこの一本の道を突き進ませたものは何であったろうか。再び筆者ほあの冬空を渡る一羽の鳥の姿に突き当らざるを毎ないのである。少年工藤祐舜の飛行船の夢は植物学に転じたけれども、その一羽の鳥の姿は生涯彼の中にあった。

 忽焉として流星の如く逝ける君、余は君の死を痛惜すると共に、日本学界の大なる損失を痛惜す

と書いた生涯の師宮部金吾は、昭和二十六年九十一歳の高齢に達してその生涯を閉じた。
 工藤祐舜の育てた当時の若い学徒たちはその後の日本植物学界の中心とたった。すなわち正宗厳敬(金沢大)館脇操(北大)竹内亮(九大)細川隆英(九大)鈴木時夫(大分大)山林遅(台北大)佐竹義輔(国立博物館)らである。

工藤は又あの不細工な箱を持ち回って今日はどこへ行ったのだろう

人は肉体が消滅するとその魂は鳥となって、七七四十九日の仏送りが済むといずこへか飛び去るといわれている。祐舜が死去したのは奇しくも冬のさ中であった。彼は一羽の冬の鳥そのものに化生して冬の空を渡っていずこへか飛び去ったのである。

  俗名工藤祐舜 法名樹心院釈祐舜


 筆者

昭和三年、湯沢市に生まる。昭和二十九年、秋田大学学芸学部(英語)を卒業、現在県立横手高校教諭四十三年、作品犬神で第二十七回文学界新人賞を受けている。


 次号は大島郁太郎深井史朗