人・その思想と生涯(37)

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田村 徳治  〜高橋 克三〜

行政学確立の先駆

 鹿角出身者で、秋田師範学校の同窓といっても、内藤湖南は手の届かない崇高な大先輩であるが、田村徳治は、筆者が二か年間、寄宿舎で起居をともにしたことのある間柄であり、きわめて親近感をもつ先輩である。
 当時の田村は、まだ旧姓の根市といい土田誠一(のち東大助教授、成蹊高校長)、菊地寅七(のち実業界で活躍)と並んでクラスの三羽烏に数えられていた。ことに語学に堪能なことと、人格の高潔さにおいて、全校生徒に注目された秀才であったことは、選挙制による級長を四年間通してつとめたことでも知られよう。
 明治四十年に秋田師範を卒業、明徳小学校訓導となったが、翌年、秋田市赤沼の三吉神社家の分家で鉱山技師田村精一に請われて養子となり、田村キンと結婚した。しかし向学の心はやまず、上京して東京高師英語科に学び、さらに京都帝大政治科に進んで大正五年に卒業したが、首席で恩賜の銀時計の栄に浴している。
 さらに大学院に学び、この間、講師として、関西大学や同志社大学の教壇にも立ったが、大正九年に京都帝大法学部助教授に任ぜられた。
 大正十一年に、徳治は最初の著書『哲学の一領域としての対象論の研究』を出す。そして、その年にドイツ、イギリス、フランス、アメリカを二年間にわたって巡歴留学を果たし、帰国すると教授に昇進した。

 新任教授として行なった講演は行政学の本領と法律学の使命上より見たる人生観的目的の考察と題するもので、今なお有名である。
 こうして田村徳治は、京大で行政学講座を担当することになったが、これはわが国における最初の講座部門であった。当時、行政学についてのまとまった文献もなく、彼はまったくの先駆者として新しい体系的研究に立ちむかったのである。そして精緻をきわめた方法論を確立し、その上に築いた理論行政学と実践行政学は、この学問の偉大な開拓者の地位にふさわしいものであった。
 戦中、彼はユニークな大東亜共栄圏理論をとなえ、戦争末期に思想戦学会を指導したことから、戦後公職追放にあったが、彼の思想の背骨をなすものは、京都学派風の自由主義であった。その真骨頂を示すのは、京大・滝川事件のさいに慰留をふりきっていさぎよく辞職、純理を貫いたことであろう。
 以下、その生い立ちから生涯を、そして田村哲学といわれる彼の学問の偉大さについて、筆を運ぶことにしよう。


下級武士の小伜

 田村徳治は、明治十九年七月十四日、鹿角郡花輪町谷地田町に、根市富之助の四男として生をうけている。富之助は南部藩の下級武士で、中野氏の柔術指南役であったが、もともと貧乏武士のため、自分の家をもたぬ身分であった。このため明治になって禄をはなれてからの困窮は度をきわめた。富之助は、花輪に間ロニ間半の古家を買って、豆腐製造と茶屋を営んだが、家を買った借金返済のため生活は苦しく、徳治の兄の留次郎などは小学四年をおえただけで、家業の手伝いをさせられていた。
 徳治の幼少時代は、意地張りで腕白なガキ大将として語られている。ちょっとでも食事が遅くなると、食べないと言って親を困らせたり、雪の積った橋の欄干に下駄のまま飛び上がり、平気で渡り歩いて周囲をはらはらさせた。水泳は得意だったが、誰も泳がない場所へ、岩の上から飛ぴ込んでみせたり、とかく心配のタネはつきなかったようだ。

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 まして学校では、教科書を丸めたので先生を袋叩きした事件の首謀者となり、教室全員をひきつれ、サボって外へ遊びに出たこともある。このため、学業は最優秀なのに優等賞がもらえなかった年もあり、この時は本人も悔んだし、文武を好んだ父もくやしがったという。
 徳治は高等小学校を卒業すると教員準備場に入り、そこでただ一人八科目全部パスという優秀な成績で教師となった。しかし準教員という資格にあきたらない彼は、苦学を覚悟で上京を志していた。彼の決意を聞かされた父は、子弟に充分な教育を与えてやれない貧しさに泣きながら同意、彼は単身盛岡まで、鉄道のない山道を歩いて出立した。

 この時、長兄喜恵吉は不在だったが、帰って話を聞いてどうかして自分のちからで、徳治を学校に出してやるといって後を追って連れもどし、こうして徳治は貧しい家計のやりくりの中から、秋田師範学校に入学することになったのであった。明治三十六年のことである。
 筆者は徳治の二年後に秋田師範へ入学したが、三年生の級長であった徳治に対しては、上級生としての尊敬よりは、同郷人としての親しみを感じていた。常に言葉すくないが、会うと親切な言葉をかけてくれるのは嬉しかった。
 寄宿舎におっても、よく机に向かって原書に親しむ読書家であった。小学時代は数学が抜群だったというが、師範では英語の方面で頭角をあらわしていた。歩くときでも、なにか考えがちなふうがあり、その沈思黙考の姿が今でも筆者のまぶたに焼きついてはなれない。


恩賜の銀時計

 東京高師へ進んで、徳治の意中はすでに学者として立つ志にかたまっていた。四年間を通じ、ただ勉強一筋に徹し、スポーツも娯楽もいっさい斥けていた。ある年の級長選挙で大多数が彼を推したのに、自分は勉強が忙しいから絶対に受けない、といって断り続けたというエピソードが、その一端を物語ってくれよう。
 かつての腕白ガキ大将は、この頃では理想的で厳正恪勤という性格に育っていた。そのため、人をよせつけず、交友もあまり多くはなかったろう。同級生のひとりが、肺結核のため学業を断念して帰郷しようとしたとき、クラス全員の名で見舞いを送り、慰問しようという議が持ち上ったが、友情として同情に堪えぬが、クラスの名で慰問することは、結果としてその人の精神的苦渋をかえって増すことになるといって反対したのが田村徳治であった。さんざん議論の末、結局田村支持が多数を占めたが、こういう主知的な一面が、この時期の彼を特徴づけている。
 徳治が入学した頃の京大法学部は、まだ京都帝国大学法科大学と称していた。大正二年九月である。同級生には恒藤恭がおり、のちに京大事件の主役となった滝川幸辰は一年上、戦後立命館大学を再建した末川博は一年下であった。

 京大で彼は、はじめ織田萬について行政法を学び、ついで佐々木惣一からドイツ法律学を学んだ。大正五年、恩賜の銀時計組に列せられて卒業したことは前に述べたとおりである。
 やがて彼は、法学の新しい分野──行政学の位置づけを試みようとした。それをやるには、いっぱんに思考の対象とはいかなるものか、を知らねばならないが、彼はその解明を哲学に求めた。大学院では、主として対象論の硫究と取組んで、その頃郷里から呼び寄せた夫人が二月か三月で再び帰郷したあとは、二年下の哲学者務台理作と北白川の同じ下宿に移って、しばしば夜を徹しての議論をたたかわしたものだった。こうして生まれたのは、処女作でもあり代表的な著書でもある『哲学の一領域としての対象論』である。そして引き続き『思想財産の移入と原理』をあらわし、そこでは徹頭徹尾、思想というものの社会性、歴史性にはふれず、抽象的に、対象的に扱ってみせた。
 彼は『思想財産‥‥』の巻頭に〈恒藤恭氏、務台理作氏に捧ぐ〉と誌している。それは彼に哲学的な目を聞かせてくれた友人への献辞であり、主知的な反面にそういう義理がたさもあった。


生々発達

 すでに彼は、大正九年に京大助教授となっていたが、前二著を世に問うた大正十一年に、同期の小栗栖国道とともに在外研究員を命ぜられた。これには先に研究員として発令されていた滝川幸辰も同道することになり、四月に加茂丸でまずドイツに渡った。当時はマルクが暴落して円貨が幅をきかせていたので、徳治らはホテルで優雅に暮らしながら、滝川が下宿してベルリソ大学に入学したのに、大学に入学するのはばからしい、という意見で個人教授について学んだ。

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 徳治は、一年ほどでフランスに移り、さらにアメリカにも渡って、ハワイを経由して帰国したのは、十三年五月であった。 
帰朝すると、ただちに教授に発令された。七月、新任教授として帰朝報告をかねて講演を行なったが、この講演会は定刻前にすでに満員で、いかに人気が高かったがうかがいしられる。当時学生だった西本頴元京大教授はまず黒板全体に所せまきまでに書き出された講演要旨、その全体が美しい楷書で、正確な字体で配列よく表示されていたが、その表現の詳細なこと、微に入り細を穿って内容を掘りさげているのに敬服した。学生たちはすでに概要をみただけで皆が皆まで降参してしまった。学生たちの一致した意見は、大学教授とは尋常一様の頭では到底努力して追つかない、特殊の天分をもった人でなければ、象牙の塔の生活はつまらないというのであった。私たちが大学教授に敬意を新たにしたのは、田村先生のこの講演によってであった。田村先生を通して、大学教授を神聖視した。

 講演は堂々として気魄があった。東北弁でわかりにくいところもあったが、難解難聴にかえって有難味をおぼえ、ちょうど経典に超人的な崇高を感ずる気分であった。という当時の思い出を記しているが、この講演の内容は、のちに《法学論叢》に連載されて、改めて法学生たちに読みかえされた。
 その中で田村徳治は、人生の目的は結局人類の生々発達(しょうしょうはつたつ)にある。人生目的の実現には行為的方向と、意識的方向とあり、そのいずれを対象とするかにより、行為の学と意識の学とに分つことができる、と説いた。この講演こそ、のちの広大な田村行政学の構想を示すところの大序論だったのである。
 行政学の講座は、京大の田村徳治をもってわが国の嚆矢とする。東大は、かなり遅れて蝋山政道が開講している。今日でこそ行政学は、法、政を学ぶ大学人の必須の課目となったが、その方法論を最初に完結した人が、田村徳治である。彼は東天は、已(すで)に輝きつつある。法律学を改造する太陽は正(まさ)に現われなければならないと言っていたが、その言葉のうらには、自分がその太陽であることの自負があったのである。


京大・滝川事件

 昭和三年、法律学の価値に関する懐疑という論文で法学博士号を授与される。この年八月、岳父田村精一が死去、また実父母もこの年にあいついで逝去している。
 昭和五年、それまで京都市内の借家を転々としていたが、現住所たる京都市上京区小山内河原に住居を建てる。
 こうして彼が長年住みなれた京大と訣別することになる。京大事件の起ったのは、昭和八年のことである。
 発端は、前の年十月、滝川幸辰教授が中央大学でトルストイの『復活』に現われた刑罰思想と題して行なった講演であった。最初は、文部省よりの注意で大学側は誤解をとくことにつとめていたが、翌八年四月、新任の小西重直総長に対して、文部省は正式に滝川教授の辞職を要求してきたのである。
 それより先、同教授の書いた『刑法読本』と『刑法講義』が発売禁止となり、その思想は内乱を煽動し、姦通を奨励するものであるから大学教授として適当ではない、というのが理由である。
 時の文部大臣はのちの総理鳩山一郎であった。
 しかし京大側は、法学部教授会がこれを拒否した。小西学長が、東京、京都問を何度も往復して交渉したが、文部省側のクビにする方針は強固で、ついに五月二十五日に高等文官分限委員会で、一方的に滝川教授の休職を決めてしまった。

 かねて総辞職の連署を集めていた法学部教授会は、二十六日に辞表をとりまとめて提出した。この時、小西総長に辞表を届けに行ったのは、宮本法学部長と、当時評議員だった田村徳治、末川博の三人である。この事件は当然学生にも反応し、彼らが指導教授を失ったいまは全員総退学もやむなし、と声明を発表するまでに発展、六月にはついに小西総長が辞職してしまった。
 新しく選ばれた松井元興総長は、前総長があずかったままになっていた十五教授の辞表を文部省に取次ぐとともに、法学部教授の切崩しを工作した。そして文部省は、強硬派と目される佐々木惣一、宮本英雄、滝川幸辰、末川博ら六教授の分をぬきだして受理し、あとの九教授に対しては辞意を撤回するよう説得につとめた。

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 六教授のなかの宮本英脩は、もとより強硬派ではなかったが、自分は最軟派であり、もともと辞職したくはなかった、という投書を朝日新聞に発表し、復帰を許された。退官組と残留組とに分裂しかけたことにより、さしもの事件も七月半ばに終熄をつげたが、強く慰留されながらも、田村徳治と恒藤恭の二人は、こうした措置は学問の自由という立場から納得できぬという声明を発表して、辞意をつらぬいたのであった。
 この事件は、滝川個人の問題ではなかった。三・一五事件のあと京大の河上肇や九大の向坂逸郎が赤化教授として追放されたのにはじまった学界の"赤狩り"の、エスカレートした姿にほかならなかったのである。

 田村徳治は、その後年の思想言論にも顕著なように、マルクス主義には批判的な立場をとる学者であった。その人が、"赤狩り"に連袂(れんぺい)して、自ら行政学という講座まで創設した愛する京大を去るというのは、恩師や親しい学友に殉ずるというなまやさしい感傷では、到底とり得ない行動である。この人の、一見温容あふれた物腰、研究室にこもりがちな日常からは、想橡もつかない厳し抵抗精神の光り輝くのを、発見できる。
 アカデミシャンとして、ジャーナリズムから遠ざけられていた徳治は、この事件で、いやおうなしにジャーナリズムの世界に登場させられた。彼は《改造》誌上に京大問題新解決案批判を書いたが、冷静に、理論整然と松井総長のとった方法を批判分析し、学問の自由と大学自治の立場から許せないことを述べている。この事件では、若い助教授、講師たちも多く京大を去ったが、彼らの手で『京大訣別記念法学論文集』が編まれたとき、出版記念に揮毫を求められた徳治は正しい生活態度と書いて寄せている。それこそが彼の生涯をつらぬくプリンシプルであった。


東亜共栄圏論

 京大を去った徳治ら十七人の教授、助教授たちは、とりあえず立命館大学の教壇に立つことになった。徳治はかつて京大助教授時代、織田萬が国際司法裁判所の正判事として学年中途でハーグヘ赴任したあとを埋めて、行政法を立命館で講じたことがあった。佐々木惣一、末川博は、のちともに同大の総長をつとめた。
 立命館で講師を続けながら、翌九年には誕生間もない関西学院大学の招きを受けて、教授として法文学部の創設にあたった。しかし、この時代の主な活動は、両大学のほか同志社などの若い教授、助教授たちをメンバーとする研究会であった。新国際主義の意義と内容という論文はこの時のもので、同志社の小壮教授田畑忍らと盛んな論争を展開した。
 やがて彼は、洛北松ケ崎にあった平家二むねの別荘"茅茹(ぼうじょ)荘"を開放して対象論の読書会をはじめ、多数の若い学究たちが彼の周辺に集まってきた。
 このころ徳治は社会運動をやりたいが、マルクス主義の理論は粗雑である。自分の理論が役に立つかどうかを検討するところから始めてみようと周囲のものに洩らしている。茅茹荘は、さしづめその実践の場であったようだ。
 昭和十二年、日支事変勃発の前後で、この間京都では人民戦線事件もあり物情は騒然としていた。やがて研究会は時局をテーマにとりあげるようになったが、支那事変に対して彼は、もしそれが邪悪に戦われるものであるならば、それを正しい方向に導くのが学者の責務である、という考え方のもとに立っていた。

 そのために全部協同主義をとなえ、関西諸大学の教授をもって全同学会を組織したのもこの頃である。十五年三月、彼は関西学院を辞職すると、秋には支那、満州の視察のため大陸に渡っている。そうして書いたのは、十六年八月《外交時報》にのった大東亜共栄圏の組織という論文であった。また十八年には、徳治の編さんで、門下の学者たちの手によって『大東亜共栄圏建設の基礎理論』という大著が公刊された。
 大陸から帰国した徳治は、同志社大学に籍をおいて、文化研究所長を兼任していたが、この時代は主として執筆活動に終始していた。戦後、二十二年三月にいたり、その"大東亜共栄圏"理論のため公職追放にあい(二十六年十一月解除と同時に関西学院大学法学部教授に復帰した)教壇を去らねばならなかったが、進歩派教授として高名な田畑忍前同志社大学長はく戦争中に書かれたものには東亜共栄圏理論が必ず展開されていた。それは共栄圏理論である点で、純粋に法学的な京都学派とは言い得ないものがあったことはもちろんだが、しかしそこにはやはり自由主義の血が通っていて、いわゆる右翼の理論とは、まるで異なるものであったことを指摘しておかねばならない。先生が戦争に勝てる論文を書こうと努力されながら、徹底した平和主義の思想に貫かれていたことも、このことを証明する〉と記している。

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『日本の興隆』と太平会

 パージのあいだの生活は、決して楽ではなかった。蔵書のほとんどを売り払うというタケノコ生活のなかで、書斎にこもった徳治は、戦後の混乱をじっとみつめながら、日本の将来はどうあるべきかを思索し続けていた。
 もっとも学恩を受けた門弟の一人である吉富重夫が〈ナポレオンの砲火の下にさらされたプロイセンの難局を前にしてゴットリープ・フィヒテがドイツ国民に告ぐを書いたのと、心情において、著述の性格において全く相通うもの〉という『日本の興隆』は、まさしくこの雌伏の時代に準備されたものである。
 田村哲学ともいうべき独自の世界観、人生観に裏打ちされ、その人類的理想をくにの伝統において実現しようという思想を体系づけたこの著述は、全四冊で三千三百ぺージもの大巻で、二十九年十月から一年がかりで公にされた。
 それより先、彼は『日本興隆の理論と方策』というパンフレットを二十七年に出して太平運動をとなえていた。その運動は二十五年春、舞鶴で市長リコールの同志青年十七名とともに創立されたものだが、その後は彼の門弟の森順次、小野哲ら若手教授を枢軸に改組織され、徳友塾として活動を行なっていた。戦前の学究生活から、八十度転換した実践活動に雄々しくむかわせたものは、なんであったろうか。

 彼にいわしむれば、太平運動はいわゆる平和運動と異なり、現状打破の運動であった。実在する社会矛盾に対してはどこまでも真相を確かめ、その過程で正義(能力だけ働いて能力だけ得る)が蹂躪されているようなことがあれば、闘争をもって正義の実現をはかる、そういう歴史的必然性を是認する立場をとる太平運動は、漸進的左翼運動でもあった。
 徳治は『日本の興隆』のなかで、彼の生々発達の理論を展開させ、生々とほ、円満かつ健全という意味、発達とは発展の過程に価値を織り込んだものと説明し、それの拡充した最終理念は天皇制の真面目な発揮である、としている。
 こうした天皇制是認の哲学を知悉のうえ、六千円という高価な『日本の興隆』が、大山郁夫、黒田寿男、和田博雄ら左翼国会議員約五十名によって購われたことは、特筆されねばならない。田村徳治の学風と人格によるものであった。


白路天涯に没す

 太平会による政権担当すら夢のなかに描いていた田村徳治は、その運動が開花しないまま三十二年十一月、病の床にたおれた。病名は胃癌であった。
 彼は京大青柳外科で、同県人の青柳安誠により手術を受け、いったんは退院したものの、翌秋に再発し、十一月二十五日午後五時四十分、京都の自宅においてついに帰らない人となった。七十二歳であった。
 彼は最初の著書『対象論…』の扉の裏に白路天涯に没し、行旅風更に寒しという詩を書いているが、まさに研究者としての彼の生涯は、天の果てまで続く人跡未踏の、そして寒風吹きすさぶ荒野を、ただひとり真理を求めて旅を続けゆくその人であった。
 学問研究に没頭しながら、徳治は片時も郷里のことを忘却しなかった。よく帰省し、二つ折りに腰の曲った実母の墓参にしたがいながら、うちわで風を送り送り歩いている孝養の姿をみかけた町の人々は、あれがかつての腕白小僧の、今をときめく大学教授だろうか、とうわさしあったものだという。
 父母の没後も、親類縁者と交わり、頼まれてその教育にもあたっていた。発病の前年の夏の帰省のとき、筆者も生家に招かれてお会いし、握手を求められたがきみは達者でいい、ぼくは近頃どうも調子がよくないので…と言われたのを思い出し、その頃すでに病気の予感があったのかと、惜しまれてならない。


本稿を書くにあたっては、三十五年刊の田村会編田村徳治に負うことの多かったことをおことわりする。



 筆者

 鹿魚郡十和田町毛馬内住、郷土史研究家、八十歳。内藤湖南、石川伍一、泉沢履斎、伊藤為憲ら郷土先賢の顕彰につくしている。秋田師範卒、小学校長、教育長、選管委員長などを歴任。