うまい秋田米をつくろう

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その歴史とこれからの課題  〜山口邦夫 県農業試験場栽培部長〜

秋田は米どころ

 秋田県の自然条件は、部分的には問題のある地域もあるが、全体として見れば気候から見ても、土壌条件から見ても米どころとして恵まれた条件下にあるといえる。
 気象条件から見ると、稲の出穂開花期を中心とする夏の気象は、適温多照で豊満な米が生産されるし、土壌条件から見ても凝灰岩を母材とする粘質土壌が多く、この肥沃な水田で育つ稲は健康な生育をたどり、良質な秋田米が量産される。
 つまり、裏日本という語感とは全く逆な、明るい天候、黄金色のたわわな田園風景を展開出来る条件を秋田県はもっている。
 昭和二四年から行なわれている米作日本一競作会では、連年高位入賞者を出し、日本一が五名、準日本一が一名、東北ブロック一が九名、東北ブロック技術優秀賞二名の極めて高率の入賞記録をあげていることはその一つの表れとも見られるり七五〇キロ集団ほう賞制度発足以来、四二年は一集団、四三年には六集団が七五〇キロの壁を突破したことも、点でなく面にまですぐれた技術が普遍化し、このすぐれた自然条件を充分に生かした秋田県稲作盤家のひろがりを示している。

 県全体として見ると、昭和四三年には水稲の一〇アール当り収量は五四三キロで全国第二位、水陸稲総収穫量六六万四千トンで第三位、品質の面では上位等級米の比率が八七・二パーセントで第一位と、質、昼ともに全国でもずばぬけた米産県である。
 このようにすぐれた米産県となったのは、たえまない技術の改良と、農家の努力による自然条件への対応、克服があったからで、手をこまねいていて得られたものではない。
 寒冷な天候に起因する冷害をさけるため、八月一〇日頃の最適条件下に出穂させるように、品種、栽培法の工夫がこらされ、秋の多雨条件での米の乾燥不良を改善するために乾燥法についても種々の施策や努力がはらわれて、今日の秋田米に実がむすんだのである。


秋田米の歴史

 秋田藩時代
 佐竹義宣公が入部直後に検地が行なわれたが、寛文四年の秋田藩領分六郡の水田面積は約三万八千町歩、総高は三二万石としている。
 秋田藩の表向きの石高は二〇万石であったが、明治初年の実高を見ると旧秋田藩分は八○万石、由利郡、鹿角郡分を含めると一〇〇万石前後の産米があったことは確実である(秋田県農地改革史)。
 しかし、藩政時代には、生産された米は租税として物納され、藩外へ移出することも少なく、藩内の需要を充す自給自足の体制下で米の生産がなされ、米の品質の点については不詳である。
 明治時代
明治維新によって廃藩置県による新しい行政組織と制度が打ち立てられ、農民の土地所有と売買、作目選択の自由が与えられると同時に、主な生産物である米穀移出の禁が解かれるなど、産業改善の発展につれて交易が自由化すると共に、商品としての米の流通が行なわれるにいたり、米質の改善を要望されるようになった。

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  しかし旧藩時代の厳密な検査の下での貢米制度が廃止され、明治九年に地租が金納制度に変るとともに、品質が劣悪となり、調製、俵装ともに粗雑となって、いちじるしく悪評をうけ、県では明治一一年に論達を発し、明治一四年に県庁に米質改善係をおくなど、大いに改良につとめた。
  とくにこの当時力を入れたのは腐米対策である。腐米は別名柳さし米と称し、雄平仙をはじめとして全県的に発生し、総反別の半数、腐米の収穫高で五八万石に達した。特に雄平仙三郡の米は米質が悪く、十年のうち七、八年は、翌春柳の芽のまさにほころびんとする、やや春暖の候に、色、味ともに変り、こうじみようなものになり、一石わずかに七〜八○銭(明治一四年の秋田市での米価は石五円四五銭)でも買う人がないという有様であった。もっともこれには商策的かけひきにのせられた面があるようで、不当に買い叩かれたという臭みもある。


悪評高かった腐米

 しかし乾燥不良の産米も多かったことは事実で、農商務省の農務顛末の第一穀類の部にかなりのスペースをさいて秋田県腐米改良のことが記載されている。この中の明治一一年は石田県令から、内務卿大久保利通への文書の中に腐米の原因として、通風悪く曇雨天の多い地形であること、湿田の多いことなどの自然条件に加えて、稲刈後田の畦畔において穂が水にひたり、その後棒または二ホに積んでも連日の雨で乾かず乾燥不良米となること、肥料の使い方が悪く、未熟堆肥で稲に害が出たり、草取りが不十分であったり、秋に田の水を乾かさないなどで米が堅固にならぬこと、収量の多い晩生にかたより早生を作らず、秋雨の頃の刈取りとなること(当時の晩生の出穂期は八月末か九月初めと推定される)。労力が少なく男一人六〜七反、女一人五〜六反を耕作するので、栽培管理が粗雑であること。農道、畦畔が狭く、ハサを作れず湿田で田の中も使えず、排水不良で稲の生育も悪いこと。運搬中、河舟の上に長くおかれ、港では浜囲いしておかれることなどが原因としてあげられている。

 これらを改良するため老農にこの改良指導に取組ませ、県では予算を計上して稲架、杭代金などの貸与にあて、あるいは耕作道、湿気抜堰、堀割、畦畔等の修繕費の助成などを行っている。
 いっぽう明治二三年には輸出米穀組合規制を公布し、県内を統一する組合を組織させ、同年一一月からは米穀検査を開始し相当の声価の向上を見たが、積年の弊習が容易に改善されず、検査事業も明治二六年二月にはこれを廃止せねばならなくなった。このようにして、改善の緒についた本県産米も悪評をこうむることとなった。
 その後、明治三三年には土崎および牛島の米商が共同組合を設けて自主的な検査を実施したが予期した成果を上げることは出来なかった。
 県では明治三七年九月堆肥管理規則を、さらに三八年七月乾田実施規則および水稲乾燥実施規則を公布した。
 これらの本県農業改良に関する三大県令を通じて、根本的に品質および耕種技術の改善をはかるとともに、明治三八年には輸出米検査規則を、明治三年には生産米検査をも行うこととして米穀検査規則を制定した。これらのかなり厳しい規制は県農会の呼応もあって明治末までにかなり徹底し、明治末年稲架実行は七三%、乾田馬耕の耕地整理が六〇%完成し、生産も年間一五〇万石に達し、市場での声価も高まってきた。


供出前は特選銘柄

 大正時代
  大正に入り検査規則を全面的に改正した結果、検査の信用を高めるにいたり大正末期から昭和初年には本県産米の名声は他府県産米を圧するにいたった。大正末期の主体品種は亀ノ尾、豊国などであって陸羽一三二号がようやく普及しはじめた段階である。
 昭和年代に入ってから、陸羽一三二号の普及と相まって、品質改善運動として適期刈取および乾燥改善を強く打ち出し特に束立の廃止運動と共に本鳰(ほんにお)、稲架(はき)がけ乾燥方法の奨励が積極的になされた。さらに東京市場で好評の陸羽一三二号、亀ノ尾は他の品種のものと検査票箋の色別をし、さらに昭和八年頃から土臼摺りと機械摺の色別を行なうなど需要者の利便を考え、商品としての面目を整えるようになり芳香、食味ともよく乾燥も改善されて粘気の強い統一された銘柄となり、東京・神奈川などの市場から秋田のすし米または味付米として歓迎され好評を博した。

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 昭和一三年、東京池袋の本県連合倉庫事務所の調べでは当時の深川全国米平均価格は石当り、全国平均三三・六五円、仙北米(雄平仙三都産)三四・九四円、地廻米(仙北米産以外の地)三五・三七円、本荘米(由利地方産)三五・七六円で全国平均より一〜二円の高値で取引きされ、軟質米としてはよく統一された本県産米の名声のほどがうかがわれる。
 以後支那事変、第二次世界大戦へと戦争の拡大につれ米穀は食糧確保のための増産体制に入り、昭和一五年には食糧管理制度が施行され、供出割当制度が実施され、早場米制度がとられるにいたった。


多収安定化への途

 戦後はまず運搬途上の脱漏防止のための包装改善指導が秋田食糧事務所で着手され、昭和二八年一月には包装のみでなく米そのものの改善のため産米改良協会が設立された。以後、消費地における求評会等を通じ本県産米の評価を高めてきた。
 いっぽう栽培法では、昭和二五年から保温折衷苗代が、昭和三十年からは三早栽培が普及され、稲作の多収安定化への作季の移動技術が滲透したが、これらは登熟を良好にするとともに乾燥を良好にして米質の向上にも大きな役割を果した。さらに昭和三九年には、健康な稲作り運動が全国にさきがけて実施され、進んだ妓術を積み重ねての科学的稲作が農家に広く普及し、現在の輝かしい成果に結びついたのである。
 秋田は米どころであり、味の秋田米の生産県ではあるが、米の品質をさらに向上せしめるには、まだ残された幾つかの問題がある。これらを解決すれば健康なイネを良質美味の米へと直結できるものと考えている。

 秋田県は粘質の肥沃な水田をもち、これが、米生産に極めて有利な条件となっている反面、排水不良水田が多いという現状につながってくる。農試の土壌類型別調査の成績によれば、多少とも排水不良の水田は全水田の五三・八%におよび、はなはだしく排水の不良の水田は二五・八%に達している。排水不良田では施した窒素肥料の肥効の調節が困難となるし、稲の根の機能が衰退して、排水不良田の土地改良は米質改良上極めて重要である。排水不良田の改良は直接、間接に米の乾燥にも関係をもつからその意味からも重要である。
 いっぽう、土壌的に何等かの欠陥のある水田については、客土、資材の投入により改善対策をとることや、土壌の物理性を向上させるための堆肥の増施も、健康な稲体にうまい米を実らせる大きな要因となる。
 秋田米は同じ品種を他県で作ったものより、自然条件から見てうまい米ができやすいと考えられ、上位等級米は食味もよいという関係が強いことから、上位等級米比率日本一の本県の米は現在でもうまいのだが、よりよい米を生産するには品種の面での改善点が残されている。米の市場での評価は均一な品質の良米がまとまって出されることにより確立される。


これからの課題

 ところが本県の品種数は水稲だけで、粳糯合わせて四三六種におよび、この品種の整理がまず必要である。特に雑品種の中には市場での不評品種が多いので、これらを奨励品種に転換し、昭和四四年度には八二%まで奨励品種の作付率を向上しようとしている。新しい良質な品種の目途もついて来たので、今後の品種の選定に大きな力を与えるものと思う。
 栽培法の改善どんなによい品種を作付しても栽培法が不完全であれば、良長質米はできにくい。
 栽培法で注意すべき点は、最近かなり無計画に行われる追肥の問題がある。無計画な追肥は倒伏、生育遅延、病害虫の誘発などで不良米発生の原因となる。
 もう一つは遅延型冷害を防ぎ得る早植を中心とした安定作季に入れる栽培法をとって実りをよくすることも必要である。すなわち冷害対策技術がうまい米と密接な結びつきをもつということである。その外、水管理、適期刈取、乾燥方法等すべて米の品質に影響してくる。
 これらの栽培法については、現在農試でリズム稲作という基本的な考え方をとりまとめ、新しい秋田方式稲作で、うまい秋田米量産の指針を打ち出した。

 調製、貯蔵の改善米は調製の方法で等級の違いが出てくることは周知の通りであるが、価格の面で良質米が優遇されるようになると、もう一度調整を見直す必要があるし、量目の点でも今後の銘柄確立のため一考を要する。
 貯蔵については、本県の夏の気候が関東、関西よりは低温であることから、県内での貯蔵は米の変質を来しにくい長所はあるが、更に低温貯蔵などの施設を拡大して、いつでもうまい米の供給ができるとすれば、年間を通して本県の産米の需要は拡大するものと考えられる。
 昭和四二、四三年の連続豊作を契機として、米の過剰問題がもち上ってきている。それと同時にうまい米の問題が連日話題にのぼっている。もちろん商品としての米の評価は、生産流通の複雑な過程から生じてくるのでなかなかつかまえにくい面もある。しかしうまいよい米を要求されることは当然のことであり、先人の努力のあとを無にしないように今まで以上に努力しなければならない。
 しかし幸なことに、現在、本県では以前にはなかったすばらしい力を持っている。それは集団栽培である。
 すでに集団の和合と協力、研さんの結果は驚くべき多数の多収記録として表われている。この力をもってすれば、うまい米の生産、産米の規格の統一などは決してむづかしいことはないと確信している。こうしてうまい米を、省力技術を駆使しながら、大量に生産するならば、本県の米作りは、前途ますます洋々たるものがある。