人・その思想と生涯(33)

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広幡憲  〜千葉三郎〜

 秋田が生んだ抽象絵画の先駆者のひとりとして、広幡憲の名を忘れることはできない。フランスのレジェに魅了され、やがてモンドリアンに傾倒した憲は、モンドリアンふうの幾何学的造型の秀作を多く制作したが、現在残っている作品はごく少ない。
 だが、彼の印象的な透徹した作品と、在野美術団体でのエネルギッシュな活動ぶりは、今なおわが国洋画家の間で語り草になっている。終始抽象絵画に献身して、教養と体験を豊かな土壌とした純白な世界に、知性と詩情の混然と融和した健康なエスプリの花を咲かせたと述懐する末松正樹(現多摩美大教授・主体美術会員)の言葉、憲らとともに交友の深かった野村守夫(現二科会・理事)の彼は何よりも人を再ばせるのが好きだった。他人のためにどこへでも走り回る男だったという言葉などに、憲の清熱や性格の一端がよみとれよう。
 その彼が、夢にまで見ていたフランス行きの念願を前に、東京・立川駅構内の冷たい線路脇で三十九歳の不慮の生涯を閉じたのは、戦後間もない二十三年十月九日の深夜だった。


お寺の養子

 仙北郡中仙町字大清水に高橋幸之助、エシの二男として明治四十四年二月二十一日に生まれた。本名、憲太郎。きょうだいは彼を含めて四人。長兄幸雄は前中仙町教育長だった。
 生家の場所は、奥羽山脈を東にひかえた仙北平野の豊穣な田園地帯。柿の木や杉の木立ちに囲まれたカヤぶき屋根の、どっしりとした農家である。付近には森や小川もあり、憲太郎は幼時近所の友だちと小川にカジカ取りに行ったり、森の中を走り回ったりして遊んだ。父幸之助は日露戦争に従軍、台湾守備兵だったが、戦後朝鮮で憲兵を勤めたあと除隊、のち村の収入役になった。軍人上がりといえば厳格にも思えるが、子供たちにはやさしい大らかな父だったようだ。
 大正七年、清水小学校入学。当時の清水小は全校百人足らずで、一学年の生徒数も十数人。同級生の話によれば、憲太郎は頭がよく、男の児童の中ではおとなしい方だった。もっとも兄幸雄から見た憲太郎はかなりのワンパクで、女の子をいじめて泣かせたことなどもあったらしい。
 二年生の夏、彼に養子の話がもちあがる。母の妹で男鹿市脇本の本明寺にとついだ叔母トヨに子がなく、憲太郎をもらい受けたいというのだ。大正八年九月十九日、養子縁組の手続きがとられたが、小学校の関係で実際養家に移ったのは翌年春。

 養父は広幡耕道といい、憲太郎をわが子のように迎えたという。この時から、憲太郎は僧籍らしく憲導と名を改め広幡性を名のる。
 脇本小三年に編入学した憲導は成績がすぐれ、毎年優等生になった。とくに図画がよく、毎学年十点。この頃の脇本小は清水小よりはるかに規模が大きく、全校児童数は、高等科も入れてざっと六百人。一学年の児童数も六、七十人。その中から十人以内の優等生に選ばれたのだから、養父の喜びようも大きかったろう。この子は、きっと立派な僧になれる。そう思ったのも無理はない。
 脇本小時代の憲導は、まじめで学校が終ると真直ぐ養家に戻り、相撲好きの養父と境内でよく相撲の相手をさせられたりした。六年生になった頃は、養父も時に負かされることがあったという。だが憲導にとって一番苦手なのが読経。初めは養父に次いで経文を読んでいるが、いつの間にかコクリコクリ居眠りしていることもあったという。

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宗門中学の時代

 大正十二年三月、脇本小尋常六年を卒業した憲導は、翌十三年仙台市の栴檀中学(現栴橿学園高校)に入学した。栴橿中は明治十九年、曹洞宗の専門支校として設立され、文字通り、曹洞宗の僧を養成する中学校だ。
 仙台時代の憲導は、五年問間を通して寮生活に明け暮れた。嵯峨秀尚、鈴木有隣、田尻義寛ら県人の同級生もおり、先輩には庭球部長の堀口■明氏(現秋田市・歓喜寺住職)、斎藤孝庵氏(現田沢湖町・天正寺住職)らがいた。初めて郷里を離れると、とかくホームシックにかかりがちなものだが、憲導にとってはこうした県人との寮生活でとくに望郷の念にかられることも、なかったらしい。愛他精神を校是とする学校だけに、先輩、後輩といった階層的差別感が少なく、斎藤民の回想によればみな兄弟のようにつき合ったし、憲導君はユーモアもあり冗談を言っては、よく人を笑わせたそうだ。
 在校中の成績は、三年まで十番以内。とくに三年生のときは、五十五人中五番目とすぐれている。中でも宗乗(曹洞宗の学問)がよく、次いで英語、歴史。図画が七十点平均とあまり振わないのは皮肉なことだが当時の図画の先生が写生よりも理論面に重点をおいたためらしい。現に憲導は当時すでに絵画に関心を示し、自画像などをスケッチしている。また文芸部に属し校友誌《友教》にも作文や詩などを載せている。

 だが、四年に進級した頃から彼の成績はあまり振わない。五十九人中十四番というのはまだよいが、五年になると五十六人中二十五番と下っている。宗乗を第一学科とする中学だけに、この学科が成績のポイントとなるのは当然。ハーモニカを得意とし文化祭では独奏もし、明朗決活とみえた憲導の内面にも、次第にあるデリケートな苦悩が芽生え始めたのだろう。
 彼は卒業間際の《友教》二十六号に無題という作文を書いているが、その中には彼の精神面がのぞかれる。仙台での五年間をふり返ってみても自分の中に印象づけられる生々しいフレッシュな感じが、さっぱり見出されない。どこまでも、古くさい下積みの腐ったワラたばのような自分ができてしまっている。(中略)
 あまりに陰欝な生き方だった。最後にどこかに何かを見出そうとするのさえ、嫌ったらしかった。焦燥にかられて駈け回れば回るほど、何かしら大きな不可抗力に出しゃばれるようで、ぐったり横たわってしまわねばならなかった。詩に哲学に宗教に、あらゆるものに対して何かを与えられることを期待して、ただ漠然として何かを求めていたのだが……
 思春期に訪れる漠然とした不安とか、青臭い苦悩といえばそれまでだが、この頃の憲導にとっては最早将来の僧職に自分が向かないことを、かなり自覚したようなふしが、前記作文の中からも何かしら感じとれよう。彼の心には、その頃すでに芸術への憧憬が強く息吹き始めていたのだろう。


美術にあこがれて

 養父が薦める仏教系大学への進学を嫌った憲導は、やがて日大英文科に入る。彼の胸には、文学への夢があったようだ。
 大正から昭和初期の日本は、芸術全般に新しい時代の潮流がとうとうとして流れていた。文学では第一次大戦後起ったプロレタリア文芸運動、わけても《種蒔く人》から《文芸戦線》におよぶ活動、横光利一らによる新感覚派の台頭、アナーキズム、『ダダイスト新吉の詩』から展開されたダダイズム、そして芥川竜之介の自殺等。中でもプロレタリア運動は演劇、美術面にも波及し、大正十四年に成立したプロレタリア文芸連盟、グループ《造型》などは時代の先を行くように社会主義的色彩を強めていった。
 こうした中で、海外からの帰国組がもたらす新しい芸術傾向――フォーヴィズム、シュールレアリズム、キュービズムそしてイタリアの未来派、ドイツの表現派、いわゆるパリ派等――がわが国美術界を強く刺激し、清新で個性的な作品が次牛と発表される。日大英文科に通う憲道の目に、こうした芸術運動がフレッシュに映らぬはずはない。彼は近所に住む市立三中の美術教師、風間直得に石膏デッサンを習ったのをキッカケに、やがて目白にできたプロレタリア美術研究所に足繁く通うようになった。

 この研究所は松山文男ら当時社会主義の影響を受けた美術人や演劇人約三十人でつくられたもので、村山知義が演劇のほうのリーダーだった。この頃の憲導は養父からの仕送りも途絶え、友人、蜘人の家を転々と獲り歩いて暮していた。当然収入はなく、大学の方も次第に足が遠のき、二年のとき中退。生活は貧窮し履くにも靴がなく草履をつっかけ、破れた学生服で野良犬のようにエサを求めて放浪していたという。
 生家に金の無心の手紙を著いたことも数知れない。そのうち、左翼への弾圧が始まる。昭和七年には。プロレタリア美術家同盟員の土橋次郎、喜入太郎、井沢助六ら十九人が検挙され、同盟はついに九年に解散、憲導の通った研究所も閉鎖を余儀された。この間、佐伯祐三、崖田劉生、森田恒友らが相次いで他界。また小林多喜二が特高警察に虐殺され、五・一五事件がぼっ発するといった暗暗雲が日本の空に立ちこめていた。

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 しかし、一方では、日本アソデパンダソ、独立美術協会などが前後して第一回展を開き、村井正誠、山口薫らのグループ《新時代》がキッカケとなって抽象主義が起るといった新風が吹き始めた。
 美術への激しい魅惑にとりつかれたものの、生活はどん底。養家はすでに憲導への僧職希望を失い協議離縁という形で、彼は広幡家から離れている。昭和九年九月復籍。しかし、彼はそれより早く広幡憲で通していた。すでに度々の送金依頼の手紙とプロレタリア芸術運動に足をつっ込んでいる弟を見かねて、生家から兄が彼を迎えに上京白上野の杜の桜がチラホラ咲き始めた昭和十年春、彼は兄に伴われて寂しく都落ちしなければならなかった。


フジタとの出会い

 生家に連れ戻されたものの、彼にはやるべき仕事がない。一メートル七五センチ近い背丈で幼時から病気らしい病気をしたことのない憲も、東京でのどん底生活で頬はげっそりこけていた。その彼は生家でごろごろしている間、幼時遊んだ小川や森を散歩したり、画帳を持ち歩いてスケッチしたりして日を過ごした。
 このままではいけない。何とかしてもう一度上京して絵を身につけたい
 憲は毎日のようにそのことを考えた。こうした彼に就職の機会を与えたのが、当時清水小の教師だった長谷部哲郎(現県史編さん室勤務)。長谷部は成田忠久の主宰する教育指導雑誌《北方教育》の同人であり、その雑誌の進展上成田が秋田市に北方教育社専属の印刷所を持ち、同時に新聞を出す計画を知っていた。
 新聞を出すとすれば当然記者が必要。 毎日生家でごろごろしている居候の憲にこの仕事を薦めたところ、彼は喜んで引き受けた。このとき憲は二十六歳。そろそろ妻帯の年頃だったが、まず経済的安定が急務だった。
 憲は秋田市に出ると、築地の原忠平方に間借りし、そこから楢山三枚橋の夕刊秋田社に出勤した。成田の主宰する《夕刊秋田》は、北方教育の雑誌発行のための念願だった印刷所をようやく手に入れ、そこで新聞も印刷していた。タブロイド判の日刊新聞で記者は憲一人。記事は成田と憲が書いた。
 間借り先の原方には、小さなアトリエがあった。原も絵を描いたが、憲にとっては渡りに舟だったろう。彼はここで、暇さえあれば原のカンバスを使って油彩の技術と取り組んだ。

 ちょうどこの頃、憲を驚喜させるようなニュースがもちあがった。藤田嗣治が秋田にやってきたのだ。すでに藤田は、サロソ・ドートンヌの審査もやり、レジオン・ド・ヌール勲章も受けて帰国した国際的画家として世間に喧伝されていた。二科会の代表幻会員でもあった。独創的な乳白のマチェールを持つ大家として、画壇からはひとしく注目を浴びていた。
 藤田が秋田にきたのは、平野弘の招きである。その年、昭和十一年六月マドレーヌ夫人を失った藤田は、経済的に困窮していたこともあって、弘を通じて自作を手離すため政吉に相談をかけていた。秋田にきた藤田は、鷹匠町の弘の兄の平野政吉宅に寄属した。
 憲は早速、平野宅を訪問した。むろん最初は取材のつもりだったが、藤田の話を聞いているうちにすっかりその芸術の深さの捕りこになってしまった。藤田の鋭いタッチとメチェは、憲にとって一つ一つが清新で鮮烈だった。あれこそが本当の芸術だ彼は帰社すると、そうひとり言をつぶやいていたという。
 それからの憲は、取材もそこそこに連日平野寄を訪れ藤田の制作に見とれた。ときには、絵道具を運んだり、水を汲んだりといった心酔ぶりだったという。
 昭和十二年二月、藤田は下米町一丁目の平野の土蔵で、世紀の大壁画に取り組んだ。この頃《夕刊秋田》は廃刊同様となり、憲の記者生活も終っていた。彼は毎日、藤田のいる土蔵に詰めかけ、超大カンバスに描かれる〈秋田の行事〉の画面に魅入った。その独特の色調と細密、放胆な技巧は、彼の心を深部から揺り動かしたであろう。後年、彼の抽象作品に見られる白の彩調は、藤田の影響によるところが多いといわれる。

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二科ヘデビュー

 憲が再度上京したのは、藤田が秋田を去ってからほぼ四カ月後である。彼は杉並・阿佐ヶ谷に間借りし、愚かれたように制作に没頭した。藤田の薦めもあって、憲は二科会展に出品すべく、雪国をモチーフとする作品に取り組んだ。
 昭和十二年の二料会展に、見事入選した〈山小屋〉がそれである。中央に切り細工ふうに描かれた立体的な建物は、周辺の雪山の白い単純化の造型美とともに大胆にデフォルメされた構図だ。右側に点景のようにポツンと作画された秋田犬は、藤田のアイデアともいわれるが、とにかく公募展に出品した彼の処女作としてそのすぐれた資質、造型力がうかがわれる。これは、むしろ入賞してもおかしくないと一部に高く評価されたほどだったという。
 この頃、二科会には東郷青児がいた。二科会は大正三年に設立された在野団体の第一号だが、東郷はその三回展で二科賞を受賞し、昭和十二年頃は二科の中心的作家だった。未来派のダイナミズムを独自の形に消化し、やがて図案ふうの女人を耽美情調に定着させ多くのファンを魅了していた。
 憲が東郷を訪れたのは、入選まもなくのこと。当時すでに豪壮な邸{毛に多くの弟子をかかえて住んでいた東郷は、この田舎出の、しかしどこかおっとりとした青年に、たいして関心を払わなかった。だが憲は、多くの弟子たちに混って東郷のアトリエに足繁く通った。

 弟子の一人に、神谷信子がいた。彼女の夫は、浅草で電気プランを経営して儲け久我山に広大な邸宅をもっていたが、一年程前に他界し彼女は未亡人だった。彼女の絵はまだ未完成の域にあり、実力は憲の方がはるかにすぐれ、二科会の中でも彼の力は新人として高く評価されていた。
 十四年、二科展の会場第九室に新傾向の新鋭作家の作品が展示され人目を引いた。第九室であったところから、展示作家らで九室会という会を結成する。広幡憲のほかに、山口長男、斎藤義重、吉原治郎、鷹山宇一、桂ユキ子、松本竣介、山本敬輔、である。山口、吉原らがリーダー格で、いずれも抽象、あるいはシュールレアリズムを標榜する作家たちで、その若々しい薪鮮な造型感覚には目を見張らせるものがあった。美術評論家植村鷹千代は、この運動を自由美術の活動とともに日本の抽象絵画史上における最も新鮮な時代と評価している。
 憲が妻帯したのは、前年の十三年九月頃。日華事変が中国全土に及び、きな臭い硝煙が日本を包んでいた。そんな時代のせいか、あるいは芸術家にありがちなだらしなさのせいか、結婚届けはずっと遅れて戦後二十一年二月になっている。相手の女性は平鹿郡雄物川町沼館、藤原熊吉の三女、当子で、二十八歳の憲より五つ年下。丸顔で、知性的な目をした秋田美人だった。


空襲と貧困と

 太平洋戦華の開戦とともに、美術界はファシズムの弾圧の足下に隷属させられる。すでに日華事変当時から時局的テーマを強いられたり従軍作家になった者もいたが、太平洋戦争になってから軍部はさらにそれを強制した。戦争画への総動員である。二科会と共に清新自由な展観をみせた自由美術協会も美術創作協会と改称を余儀なくされ、松本竣介らの如きは人間と芸術の名のもとに"生きている画家"として軍部に抵抗してにらまれたりした。
 こうしたファシズムヘのプロテストとして、十七年に靉光、糸園和三郎、井上長三郎、大野五郎、寺田政明らが結成した新人画会が、人間としての最少限の自己主張を掲げて敗戦の前年まで三回展覧会を開いた事実などは、忘れてならない芸術活動といえよう。直接参加こそしないが、すでに実力が評価されていたフランス帰りの野口弥太郎、末松正樹のほか、憲、それにのち自由美術から主体美術の結成に参画した奈良清四郎(尾去沢町出身)らも、新人画会の影響と主義に同調した数少ない純粋派の作家だった。

 太平洋戦時下の憲には、もう一人重要な交友人物がいた。建築デザイナー水島政男である。憲が彼と知り合ったのは、昭和十六年の秋で、当時水島は東銀座三丁目に建築デザインの事務所を置いていた。憲は飯田橋にあった二科の洋画研究所(東郷青児主宰)に通ったあと、よく東銀座の水島の事務所に立寄った。水島は豪放磊落、経済的にも恵まれていたので、憲のように訪れる貧乏画家を歓迎し昼食をご馳走したりした。
 だがこの頃、憲の妻となった当子は一子監子をかかえ、収入の望みもない夫と離れて阿佐ヶ谷の間借り先で細々と洋裁の手内職でやっと生計を立てていた。肝心の夫憲は、前述した神谷信子と同棲し久我山の彼女の家に住んでいた。神谷の屋敷は二階建てのだだっ広い邸宅で、庭には騨や櫟が生え繁り、往時の繁栄ぶりを物語っていた。

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 憲はこの広大な屋敷の中で、表向きは絵の指導だが、実際は神谷とほとんど夫婦関係の生活を続けていた。そんな中でも、憲は有楽町にある日本新聞社(のち産経新聞が買収)の建物内にあるクロッキー研究所通いをするなど、常に自分の制作方向に情熱的な模索を続けていた。
 戦時下における憲の骨頂とする抽象画の制作が、どれほど内面的成長を遂げたかは明らかではない。ただ彼は、焼夷弾や爆弾の降ってくる物騒な東京を逃れ、軽井沢に疎開した東郷のあとを慕って、ほぼ終戦のラジオ放送時まで東郷の疎開宅の書生的役割りを果たしていたのは明らかだ。彼は正直でよい男だったが、生活的には破綻が多かったと東郷もいうように、憲は経済的な苦労のために、方々に不義理を重ねていたことも事実であったろう。彼にとっても、宿命的に重苦しい貧困の時代に違いなかった。

輪禍、その死

 終戦後の広幡憲は、低迷した暗い時代から解放された喜びとともに、カンバスに向って惰熱的な発散をたたきつけた。十九年に解散した二科会を、東郷育児を立て役者にして再建した陰には憲の行動力も大きな影響となった。再建第一回の二科会展に、彼はモンドリアンふうの幾何学的抽象力作〈ラ・ニユェ〉、(パンチュール〉を出品して特賞を受け、二科会員に推挙された。当時彼は自由美術の一群で絶対象派の同人でもあり、二十二年には二科会無鑑査という破格の照明の中に浮び上った。
 同年、憲は二科会から自由美術に移籍その秋の展覧会に〈白の作品A〉〈同B〉を出品して注目を浴びた。この直後知り合い、終生変らぬ友情を誓い合ったのが冒頭に紹介した末松である。末松に送った彼の手紙には永い間何も言えない生活戦争の終るまで、言いたいことしたいこと何ひとつ、自分の考えを表明できず胸の中に泥でもつまったような意味のない弧独な生活をもて余していたとしたためている。
 憲は末松を誘って、よく飲みよく語ったという。洗い落さなければならない安易な一切の垢、新しい乱暴な情熱。それらすべてを一緒に解決しようと彼は吐き出すように言ったという。だが、彼のそうした美術への情熱とは裏腹に、別居中の妻子と同棲中の神谷との関係からくる苦悩は憲の胸中深くに重くよどんでいただろう。
 彼には、すでに一女一男があった。戦時中は一時郷里秋田に疎開した妻が、戦後再び上京して阿佐一谷に住んだが、一方で彼は神谷との関係を精算できずにいた。

 それでいて、憲は友人や知人たちと顔を合わせると、何よりも"人を喜ばすことに熱中"し、ときには久我山の神谷邸で郷土料理のナットウ汁を作って友人に味わせ、酔えば裸踊りまでサービスする男だった。
 後年特に親交のあった末松の話によると、憲はフランス話をよくし必ずパリに行ってみせると意気込んでいたそうだ。彼のフランス語は、戦時中一年間ほど通ったお茶の水のアテネ・フランセで学んだものであろう。憲がいかにパリ行きを夢見あこがれていたにかがわかる。
 津軽出身の作家太宰治が自殺した二十三年六月から四カ月あと、太宰と同じく一人を喜ばせることが何より好きだった広幡憲は、自由美術の会に次いで水島と新橋付近を飲み歩いた。そのあと東京駅で水島と別れ、中央線立川駅行きの終電車に乗り込んだ。さして酔っている風には見えなかったと後年水島は語るが、終電車は彼の降りる吉祥寺を通過して終着駅の立川まで運んでしまった。フランス行きを夢見、新時代の抽象絵画の到来にウトウトして乗り過してしまった憲は、終着駅から久我山まで歩いて帰る途中の同駅構内で、車庫に戻るためバックしてきた同じ電車に後頭部を打たれて絶息した。
 死に顔は、きれいだったという。後頭部の陥没個所が命取りだった。生きていれば、必ず一方の旗手になれる男だったと述懐する末松、野村らの言葉は地下の彼の心にしみじみとした友情として伝わっていることだろう。
 法名、普明院草風一桐居士。生家に近い曹洞宗の大清水墓地に眠っている。




 仙北郡田沢湖町に生まる。秋田魁新報文化部記者。『文芸秋田』同人。筆名・酒匂健四郎。


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