百四十年間の苦闘を刻む開田事業

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田 沢 疎 水 物 語
           鈴 木 孝 治

 田沢疎水について書くようにという連絡をうけたが、第二田沢のまちがいでないのかと思わず問い返した。なぜなら田沢疎水生え抜きの田沢疎水土地改良区連合理事長小松武文氏をおいて他にこのことを語る資格がないからである。
 ただしさしがねが、そこらあたりから出たらしく思われる節もあったので、ペンをとって見たものの、想がまとまらないまま、太田村田沢疎水土地改良区竣工式の資料を見つけたので、まずこれからはじめることにする。


開田記念碑

 役場の前に、田沢疎水開田竣工記念碑が、小畑知事揮ごうのもとに、でんと偉容を誇っているが、その背面に私の撰文により次のように碑文が刻まれている。
 「この地一帯の開拓については、今から約百四十年前の文政年間、時の秋田藩主佐竹侯により計画され玉川より疎水し、三千へクタールを開田するため、延々三十キロメートルにわたる導水路を掘削し、その工事は大部分完成して開田も逐次行なわれたこれが御堰と称する水路である。その後この事業は水路の決壊埋没と、毒水とのため遂に失敗に帰し、いくたびか復旧の計画がたてられたが、実現にいたらず、空しく荒廃するばかりであった。
  しかし父祖代々開田に希望をつなぐ地元の熱意と努力は、時の政府を動かし、東北振興の一環として、昭和十二年「田沢疎水開墾実施計画」が確立され、国策としてその第一歩がふみ出された。この計画は玉川の水を田沢湖に流しこみ、その毒性を薄めて水田利用として、三千ヘクタールの山林原野を開田しようとするものであり、国営県営、耕地整理組合施行分と分かれて事業が施行された。
  昭和十八年にいたり農地開発営団の発足に伴い、全面的に同団の継承するところとなった。たまたま戦争の影響をうけ一時中止し、終戦直後の昭和二十二年に営団は解散となり、農林省直かつ事業として引きつぎ、再び時代の要請にこたえて事業は進み昭和二十五年アメリカの見返り資金の投入等により急速に幹線導水路が完成した。延延三十五キロメートルにおよぶ、幅七メートル、深さ二・五メートルの水路に満々たる通水をみたのは、翌二十六年の春で、ついにわれらの待望久しい悲願は達成された。
  一方県および地元では、開田予定地である山林原野の開拓を、力づよく推進し、支線用水路、道路等付帯工事も進み、また手掘りによる開田開畑等が営々として進められ既に三百五十ヘクタールが開田された。
  ここにおいてわが太田村では、昭和三十一年十一月に関係地域七百五十ヘクタールを区域とする「太田村田沢疎水土地改良区」を設立し、とり残された難関の地域を、機械力をもって本格的に開田ならびに整地の事業を実施し、四か年の努力はみごとに実を結び、かつての不毛の地は美田沃野と化しここに二十年来の大事業は完成した。云々──」
 このような開田記念碑は、羽州街道の上にそれぞれ建立されている。すでに熟田化して昔からの田んぼにつらなり、入植部落も二十年をへた今日、あたりの景色にとけこんで、ここが田沢疎水の開田地区との説明は、わずかにコンクリート舗装水路に区別されるくらいのもので往昔の松林、草刈り場をしのぶなにものもなくなつた。
 

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田沢疎水の概要

 田沢疎水の関係区域は七ケ町村にまたがり玉川により左岸と右岸の二地区に分かれている。
 事業の概要は別表のとおりになっている。
 この結果、年間一万九百五十トンの米の増収をみているが、これは反収を四百五十キログラム(七・五俵)としての算出であり、昨年からは六百キログラム以上の米を大部分の関係農家が生産している。
 この疎水事業の完成によって仙南村、六郷町の明天地野、千畑村の若林野、太田村の田屋野、千本野、駒場野、小曽野、中仙町の柏木野、木内林、田沢湖町の真崎野の原野がそれぞれ姿を消し、一望の田園地帯が出現したのである。(別表参照)


促進期成同盟会と裁判

 昭和二十二年、公選による初の町村長が選ばれた。あの敗戦後のこんとんたる世相のうちに、何かやらかすべく、田沢疎水の早期完成こそ、目下の急務であると、関係十ヵ町村の長が相つどい、会長は小松武文(長信田村長)幹事長千葉秀男(豊岡村長)があたり、大挙上京して陳情した。それは猛烈をきわめ、ずいぶん派手なものだった。ついに二十五年度にアメリカの見返り資金一億三千八百万円の割当導入を獲得し、工事は急速に進展し、翌二十六年春、全線を通水の大戦果をあげた。ところでこの陳情費をめぐり、事件がおきたのである。
 事業を請負った業者から、いくぱくかの献金をうけ、これを陳情費にあてたもので、同盟会の豪傑どもは集会のつど、団結を強固にすべく、この献金をきれいさっぱりと使い果たした。その責にあたった栢森茂所長、石塚三郎課長が犠牲となり、請負業者十数名、それに町村長十名が大曲裁判所によばれ、公判廷があふれるばかり。田沢疎水の成功をおもうとき両氏に対していまなおすまなかったとおわびの念を禁じえない。両氏はその後いろいろの逆境を克服して、いま事業界に活躍していることはせめてもの慰めである。
 その後、同盟会の会長は藤川得三(神代村長)、戸沢貞之助(千畑村長)、幹事長鈴木孝治(太田村長)とかわり、盛大な竣工式をあげたのもつい昨日のような気がする。


ブルドーザー

 開墾鍬とスコップだけの開拓。まことに言語に絶する苦労の連続で、入植者はよくその難苦を乗り越え割当の二・三ヘクタールを開墾したもので、二十六年はじめて長信田に十数町歩の田んぼが植え付けされた。そのはじめての収穫はそれこそ神にささげるもので感激もまた筆舌に尽せぬものであった。
 翌年から文字通り寝食を忘れた開墾は進められ水田が出来上ってゆく。入植者を主体として水利組合(組合長佐藤勝治氏)が結成され水管理に当ったが、ザル田に水ではいかに大川一ぱいの水を向けても代掻が進まない。冷水のかけ通しは水不足と肥料の流失、地温の低下と悪循環を重ね、収量は開拓地らしく貧弱なものであった。そこでペントナイトの投入や床締め工事等やっきとなって対策を講じたが、さして効果はあがらない。それでも死にものぐるいで開拓にうちこむ農民の姿は生活がかかっているとはいえ崇高そのものであった。
 ところで鞠子川の氾濫によって、畑屋の地区が県営による農地災害復旧工事が行なわれブルドーザーがはじめて仙北地方に出現したのである。ブルの働きのものすごさ。日本は鍬とモッコで飛行場をつくり、アメさんはこのブルでならして鉄板敷いて飛行場をつくったとよ、と握り飯持参で見学する者も出た。

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 これならいかなる荒蕪地も十分こなせると、はたと手を打ったものだった。
 相ついで結成された各町村土地改良区が争ってブルドーザーによる開墾に突入したのは昭和三十一年頃からである。ブルがあの巨体を数十台も乗り入れ、音もすさまじく林、巨木の根、砂利、礫塊、起伏、湿地をものともせず、未明から暮夜にわたりばりばり拓くものナごさ。あの難物として取り残された地区が見るからに肥えた士におき代えられ、ならされて次から次と田んぼが出来上ってゆく。まさに驚異そのものであった。この田んぼは翌春植え付けするや水保ちはよい、生育はよい、したがって収量は断然多く、とても開田地区とは信じられない立派な成績をあげた。そこで手開墾地区も床締め整地のため再開田を行なった。昭和三十二年八月田沢疎水全域の十一土地改良区をもって秋田県田沢疎水土地改良区連合が発足し、さらに用水の利便を全域に及ぼし、開田成果をより高度のものとすべく運営に当たり今日に至っている。
 ブルドーザーがなかったならば今日の田沢疎水はあり得ず。ザル田に水では水不足のため上流すじの条件のよい所が一部水田となり他はまた荒廃に帰し、遂に失敗に終ったろうことは想像に難くない。
 栢森所長の次に佐々木善喜所長が着任されたがあまりにもカタく、いつも握り飯持参の監督であり陳情同行だったが、出来上ったものはさすがに堅固なもので、われわれ受益者は大いに徳としているが、業者は佐々木悪鬼所長の尊称をたてまつっていた。ただいま彼は土木業界に活躍中。
 各土地改良区の開田工事、付帯工事(用排水路・農道)の施にあたっては農林漁業資金の導入により進められたが、会計検査院の検査にひっかかりずいぶん苦労したものであるが、遠い昔の物語となり、年賦償還金も三分の二を終っている。


花嫁問答

 ときは昭和三十四年某月某日。ところは仙台農地事務局長室(今の東北農政局の前身)相手は堀局長、当方は小松理事長をはじめ関係町村長と各土地改良区幹部連中。例によって上京陳情の帰路仙台に立寄り、事業の進渉を謝し、やおら陳情に及んだ次第。
 局長は二十数年にわたる田沢疎水も明三十五年度で補修を終り完成するわけだが、すでに開田の成果も上々、本当に国営事業として大成功だ。施設の地元受注の準備を急ぐよう言われ、上機嫌で笑いのうちに話がはずむ。小松理事長やおら、局長!どこの親でも可愛い娘を嫁にやるときは、それ相応の嫁入り仕度と美しく化粧させてくれるものだが、田沢疎水の施設は昭和十二年来二十数年かかってやった仕事、特に戦時中のものはひどいから、こいつを全部やり直してきれいな花嫁に仕立て直して渡してもらわないと当方としても覚悟があると一流の談判が切り出された。局長そこで何言ってるか。すでに何年もつれそって子までなしている仲(水を通して収穫を得ている)結婚はすでに出来ている。あとは形式的な挙式が残っているのみ、となかなか頑強。いや違う、〇〇の通りがよければそれでよいものではない。鼻だって息が通るだけではいけない。是非立派に化粧して花嫁らしくして渡せとこちらもまた譲らない。きわどい話に秘書嬢お茶もくめず、さりとて退席もならず、皆でどっと大笑い。
 ところでこのとき当方として大いに含むところあり。第二田沢開拓がようやく日の目を見ようとしているときで、東北電力との水利問題がなかなか進展せず、堀局長の令兄が電力の副社長であるし、この間をよろしく願わねばならず、また調査一年、実施設計一年と見ても少なくも三十七年度まで田沢疎水事業を継続して、三十八年三月三十一日田沢疎水開拓建設事業所閉鎖、四月一日第二田沢開拓建設事業所発足とタイミングを合わせなければどうにもならない瀬戸ぎわ、両方とも相当のところまで談じこんだ。
 かくしてその後高度の政治折衝の結果、われわれの主張はとおり補修工事が進められ、それのみか上堰、窪堰川(以上太田村)赤倉川(千畑村)斎津川(田沢湖町)の改修まで行なわれた。また私どもの次のねらいであった第二田沢が予定どおり発足開田し、さらに仙北平野地区の用排水改良事業が実施の運びとなったが、田沢疎水の有終の美をなし、これら二つの国営事業の企画、示唆した高橋永一郎所長の偉大な計画と指導は忘れてならないところである。高橋所長もまた健在、業界に活躍中である。

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 竣工式の際、堀前局長の出席をいただいたが、あのときの花嫁間答はよほど強烈だったのか、当日はもっぱらその話でもちきりだった。


記録映画「新しい大地」

 二十有五年にわたる田沢疎水事業完成を記念して、記録映画を作製、後世に遺さんものと、「新しい大地」のタイトルのもとにとりかかった。県のご援助、特に相場信太郎、碇石善蔵、小松武文、藤田春友の四氏の格別のお骨折りによりシナリオが出来、撮影は快調に進められた。幸なことに戦前撮られた十六ミリ映画や、アルバムをひっぱり出したり、本事業のおおもとの田沢湖の美景、郷土色豊かな行事、民謡をふんだんにとり入れることにして潤いを出したが、そこは民謡の豊庫、仙北地方とて多彩なもの、良く出来たと感じ入っている。
 製作田沢疎水土地改良区連合、後援秋田県監修農林省『新しき大地』とタイトルを打出したが、農林省のその筋の係の老大人いわく標高百メートル以下にこんな立派な開田がなされる未墾地が残っていたわけがない。おおかたどこかのほ場整備事業の映画だろう。それに観光色が強く景色や名物、行事、民謡が多すぎて農林省後援も監修も不可と頑として応じない。手続きが面倒なことははじめからわかっていたが、官房あたりの固さに参ったものである。今もって残念である。
 あのとき田沢畔湖で踊っていただいた方々にまだお礼していないが、藤田連合事務局長がいつかその方の一人に会ったら、お礼よりかその映画を見せて下さればそれでよいとの申し出があったそうで、二十五年もかかって完成した大事業の記録映画の後仕末としても気の遠くなるようなのんきな話である。


時局と国策

 時局、国策、私ども戦中派にとっては見なれ、また聞きなれた言葉である。
 幾千年の昔から稲を作り続けた日本農民の宿命として水を求めてやまない豊民。地域社会の発展と営農の向上に努めた人々、また国営事業として盛り上げた先輩の努力はいかばかりか、誰か今日の美田三千ヘクタールの姿を想像し得たことか──。去年に続く大豊作とて当地区も反当十俵はすでにあたりまえのようである。

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 第二次大戦直前の時局は、食糧増産を至上命令とし、ついで自立農家育成(増反)二・三男対策(入植)と、未墾地を強制買収して三千ヘクタールの開拓事業ははじめられた。しかも水利を伴う大開田事業である。
 終戦後は戦時中の強制疎開、海外引揚者、復員者の就業対策と国土開発が加味されて本事業はいよいよ時代の脚光を浴びて推進され、そして成功した。
 食糧の自給態勢の確立はわが国今日の戦後復興と高度成長をもたらしたことは論をまたないところであり、ついで田沢疎水の成果をいま一歩進めて第二田沢開拓を熱心に推進された小畑知事はじめ、根本、笹山の国会の諸先生のおかげですでに七百ヘクタールが開田され、明四十四年千畑地区三百ヘクタールで第二田沢開拓も完了しようとしている。
 古米累増、食管制撤廃、作付け転換問題等が政治の大課題となっている。国策そのよろしきを得たるも過ぎたるは及ばざるにしかない状態とあいなった今日(皮肉ではない)米作り以外に生きる道も術もない秋田県農民に納得のいく施策、国策をしめしてほしいと衷心からもとめるものはひとり筆者のみではあるまい。われわれ農民もがんばる。よろしく胸のすくようなホームランをかっとばしていただきたいと切に祈ってやまない。(筆著・仙北郡太田村助役)



郷土人物伝集 「秋田の先覚」 県広報協会で受付中

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 集録されたひとたちは、明治維新以降すぐれた業績のあった人のうち没年順に配列し、内容も単なる伝記の集積でなく、各人物の生涯、業績をおよぼした影響について紹介してその人の人間像を浮き彫りにしている。執筆も県内各方面の権威者によって書かれ、青少年にも理解しやすいようにまとめられている。

 当広報協会では、伝記出版を機会に県の了解のもとにこれを増刷刊行することになったので、郷土史に関心をもたれる方々はもとより、郷土の先覚者の貴重な足跡を知るためにもぜひ一読をおすすめしたい。
 体裁はB6版三百九十ページ、頒価一部四百五十円(送料七十円)ご希望の方は、秋田県秋田市山王四丁目一ノ一 秋田県後方協会(県庁秘書広報課内)まで申し込みのこと。
 
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