秋田の歩んだ明治百年(第2回)

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戊辰ノ役の人物群像

 奥羽戦争、つまり明治元年(一八六八)の戊辰ノ役には、有名人が薩長方の兵士として、やってきた。のちに軍人政治家になり、三度も内閣を組織した桂太郎も秋田で戦っているが、彼の二十二歳のときである。
 明治元年七月十三日、薩長らの東北遠征軍は山形の船形で鶴岡藩の兵にうたれ秋田に逃げてきた。二十五日には鶴岡の庄内兵は院内峠南の及位(のぞき)まで進んでいたので、秋田藩の院内詰め武士大山若狭守は一挙に攻撃をしかけるが、しかし及位の在内兵にやられて敗走したのである。
 この夜、院内峠の近く七色木(なないろぎ)に陣営していた長州藩の桂太郎は用便中に庇内兵に襲われたが、院内のある百姓の機転によって難をのがれることができた。もし、このときその百姓の機転がなかったならば桂内閣も歴史に登場しなかったであろう。
 東北遠征軍の副参謀である大山格之助(のちの綱良)は鹿児島の鍛冶屋町の生まれで、同じ町内から西郷隆盛や大久保利通が出ている。本職は島津家のお茶坊主だが、一方では剣術を磨き、腕は相当なものであった。例の「寺田屋騒動」のとき島津久光がさし向けた九人の使者の中に格之助も入っていたのである。
 戊辰ノ役の前夜、秋田藩が仙台藩使者を斬殺する事件が起きたが、その計画者が格之助であって、とにかく秋田藩を官軍の手におさめることに成功させた立役者でもあった。この功績で彼は八百石の加増をえているのである。
 後日、征韓論に破れて帰国した西郷隆盛を暖かく迎えたのが大山県令であった。県令とは県知事で、当時格之助は初代鹿児島県知事になっていたのである。
 また、明治十年まで鹿児島は西郷王国の観があったのだが、それも格之助の行政手腕が陰にあったためと言われているほどである。
 西南戦争の終了後、大山は西郷に味方した理由によって斬首刑に処せられた。
 一方、末は大臣と称せられながら、大山以上に不運だった男もいた。長州の世良修蔵である。彼は、高杉晋作の奇兵隊の幹部であり、薩摩をそそのかして戊辰ノ役を起こした人物である。つまり東北遠征隊の副参謀として事実上の指揮者となった彼は、仙台藩を強迫し、多年のうらみのある会津藩を一挙につぶそうとしたわけであった。
 しかし、仙台藩や米沢藩は和平案を持ってくるので、なかなか会津討伐の目的は達せられない。
 ところが、この世良から東北遠征軍の大山参謀へあてた密書が、仙台藩士の手に入ったのである。それには『会津、庄内は降伏しても許すべきではない。だがいまは戦術上まずい。奥羽諸藩が連合して両藩を応援するおそれがある。もう少し様子をみて、仙台、米沢の兵備がゆるむときこそ一挙に奥羽を討伐すべきである。奥羽はみなこれ敵である。武力討伐以外に奥羽平定はあり得ない』その意味が書いてあった。
 激怒した仙台藩士九名は世良が福島の遊廓金沢屋に泊まっているとき、不意を襲い、これを斬ってしまった。
 かくして奥羽の天地を戦乱の巷と化す導火線に火が点ぜられたのであるが、あたら命を失ってしまった世良修蔵は、ときに三十四歳。もし大山宛ての手紙が発覚しなかったならば……と、ここにも歴史というものの微妙なニュアンスが感じられるようだ。


少年鼓手と女兵士

 戊辰ノ役に登場した多くの人びとの中から、異色人物として男女一人ずつを、ここに紹介してみよう。

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 まず、九州大村藩の浜田きん吾少年である。南部軍の攻撃に備えて、仙北郡角館には二百人ほどの薩長軍が駐屯していたが、その主力は長州、大村、小倉の各藩士で、地元の各商家に分宿して秋田藩士と作戦を練っていた。彼らは新しい鉄砲を持ち、ダンブクロというズボン、ゲビロという太鼓を叩いて行進し、人びとの目を驚かしていたという。そのゲビロを叩く少年鼓手が大村藩の浜田きん吾で、わずか十五歳の兵十である。
 明治元年八月二十八日の正午ころ、鶴岡、仙台、上の山の連合軍が西方から玉川伝いに角館を攻めてきたが、すでに連合軍は秋田の南部も陥れていたのである。
 そこで角館の薩長軍は、岩瀬河原で東北連合軍を迎え討ち、一進一退の戦況を続けた。あけて二十九日、神宮寺方面に待機中だった九州平戸藩と山形新庄藩が角館に応援のためやってきたが、しかし南部兵も東から角館を襲った。こうして大乱戦が展開されるうちに浜田少年は戦死してしまう。
 少年は一枚の手紙を持っていたが、父浜田彦兵衛からのもので
  ふたばより手くれ水くれ待つ花の
   君がためにぞ咲けや此のとき
の和歌がしたためられていたのである。
 父親が眼病のため、代わりにきん吾少年が秋田にやって来たのであった。少年の写真と和歌の手紙は、いまも角館町の常光院に残っている。
 次に、ジャンヌ・ダークのような女の兵士も戊辰ノ役に登場した。北秋田郡比内町扇田のタバコ屋八右エ門の妻、山城ミヨがその人である。
 明治元年八月、戊辰ノ役が起こると、夫の八右エ門が義兵となって参加するが病弱のため、ミヨが身代わりとなって男装のまま戦場に赴いたわけである。
 はじめ十二所の秋田軍で炊事と物資運搬の役目に励んでいたが、八月九日に扇田が戦火を浴びて一面の焼け野原になったため、八月二十日、ミヨは兵糧を運ぶため大館の二井田街道を通行中、川反の間道から進んできた敵方の弾に当って戦死したのである。ときに三十五歳であったといわれる。
 もともとミヨは、いまの大館市真中の佐藤久右エ門の家に生まれたが、幼い頃から元気もので、また手踊りがうまかったとも伝えられている。
 戊辰ノ役のあと、秋田藩は彼女に一人扶持の賞与を授けた。また明治二年六月、わが国初めての女の神として靖国神社に祀られたのである。
 この戊辰の戦死者にも、いろいろな人がいたであろうが、十五歳の少年兵といい、女の兵士といい、何かを感じさせてやまない。かつての戦争ニュースの一コマである。山城ミヨには子どもあって、現在も子孫は扇田に住んでいる。


山中新十郎と辻辰之助

 戊辰ノ役で、秋田は若い国学者や洋学者たちが勤王運動をつづけ、ついに藩を薩長の政府軍につかせたことは有名である。が、その陰になって働いた人たちもいたことを忘れてはならない。ここに、そうした陰の人物二人をとりあげてみることにする。
 その一人は、幕末の豪商山中新十郎である。文政元年(一八一八)平鹿郡増田の村方商人の四男坊として生まれたが、農村の通例として、間もなく養子にやられた。
 すでに十歳の頃には、早くも貸し付け業をしていた――ともいわれるが、いかに早熟とは申せ、これは少しオーバーである。要するに幼い時から才人であったということであろう。
 天保六年(一八三五)十八歳のとき、彼は青雲の志を抱いて秋田の城下町にやってきて商売をはじめたが失敗して無一文となり故郷に帰る。そして天保十一年、二十三歳の彼は再び増田から秋田に出る。そして他藩の物資を買わずに、秋田の物資だけでまかなえるよう産業対策を建てるべきだ――とする建白書を藩に提出したのである。いわば県産品愛用運動のはしりであろう。
 当時、秋田藩は他国の絹、ツムギ、麻、木綿などを大量に移入して莫大なお金を使っていたので、大きな「お国損」なのであった。

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 山中新十郎は、半官半民のマニファクチャー形態の木綿織り座を、秋田の大町三丁目から茶町にかけて設け、有名な「山新木綿」を織り出し、他国にまで売りつけるように努力するのである。
 そして、この利益金を勤王運動費に充て、秋田藩を新政府側につかせるために活動し、山中自身もまた「大小荷駄方支配人」という武器弾薬調達輸送係の元締めとなって働いた。
 さらに戊辰ノ役が終っても、引続いて地方産業の近代化を指導しながら政府に対して多くの財政上の意見書を提出している。
 明治十九年、六十歳で亡くなったが、りっぱな碑が、いま旭川小学校裏手の手形山に残っている。
 いま一人は六郷町の辻辰之助である。
 彼は金持ちの町人であったが、平田国学を町の熊谷氏に学び、熱狂的な勤王ファンとなったのである。
 人びとは、彼に"勤王狂"のアダ名をつけたほどだが、ちょうど政府の東北遠征軍が九条総督を先頭にして秋田入りしたとき、ポンと大枚のお金を出して私設スパイ網を秋田の各地に張りめぐらし逐次情報を九条総督に教えたという。このため政府軍は大助かりで戦局勝利をおさめ、東北を鎮圧した形になっていったのである。
 辻は、また金輪五郎のパトロンとしても名がある。阿仁の出身で、大村益次郎暗殺団に加わった金輪が、辻に金を借りて東奔西走したといわれる。
 また、辻の子どもえい洲(しゅう)は、仙台自由新聞の記者で、明治中期に「森林制度革新論」を著わし、身勝手な官有林化を批判している。


明治初政の黒い波

 奥羽戦争、つまり戊辰の役で秋田藩は薩長の新政肩について勝利をおさめ、東北の各藩をリードするような立場になったのだが、しかし明治三年から相次いで四つの事件が起こり、これが全国的な問題にまで発展してしてしまうのである。まさに秋田の夜明けに巻き立った、あまりにも大きな黒い波であった。しかも関係者のすべてが戊辰ノ役における抜群の功労者であったため、秋田藩にとっては思わぬ足ぶみを余儀なくされることになる。
 明治二年十月、第一の事件は秋田新田に起こったのである。
 秋田新田というのは、いまの河辺郡雄和村椿台になった佐竹壱岐邸(のち湯沢の岩崎に移って岩崎藩になる)のことである。
 この秋田新田の公用人山崎将蔵は、外国商社から五千両の融資を受けようと計画し、そこで土佐藩少参事岩崎彦太郎のあっ旋で、オランダのアテリアン商社と契約を結んだのである。しかし不思議なことに、契約したのは八坂丸という外国製蒸気船で六万五千両代、それを六回払いで支払う約束となっていた。
 明治三年一月、船が東京に着いたころ秋田では混乱状態に陥っていたのである。
 同年十月、秋田藩の財政第一人者佐藤時之助らが調査したところによると、土佐藩では同様な手口で、あちこちの藩の仲買い商売をしていることが判明したわけである。
 このため、外国からの借金、つまり外債事件によって秋田藩知事佐竹義堯は、一万四千石の禄を五千石に減らし、家士の賞典禄二万石分も、すべて借財返済に当てると発表したのである。藩大参事初岡敬治は率先して三十両を納めたが、そのころ、もうすでに借金は利息ともに八万両にもなっていたのである。
 どうしても土佐藩の岩崎に返済しなければならぬと努力している秋田藩に、ストップをかけたのは政府であった。これは非常に有難いことであったが、しかしその代償が恐ろしい形であらわれることになったのである。
 すなわち、土佐藩には何の罪をも負わせずに、秋田藩だけを刑事事件として処罰することにしたのである。このため秋田藩では大量の罪人を出すことになったが、この「八坂丸負債事件」は、実に不思議な事件として、その真相は未だ解明することができない。

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 なぜ山崎将蔵が船を買おうとしたのであろうか。事実、秋田藩は戦争経費で苦しい経済状態にありながら、金を借りずに船を買ったのである。それゆえ一説では、秋田藩が船を求め、中国と貿易しようとしたのだという説が強いようだ。
 ちょうど秋田藩の大阪蔵屋敷が、明治三年五月ごろになって「秋田開拓物産売り捌き所」に看板替えしたところを察しても、貿易とまでは断定できないにせよ船で商取り引きしようとしたことは事実に近いようである。


秋田贋金事件

 秋田藩は戊辰ノ役で莫大な戦争費用を使い、それが借財となって残った。そのため秋田では藩内通用の金を製造することになるが、これが後日思わぬ結果を招くことになった。いわゆる「秋田贋金事件」と呼ばれるものである。
 まず、戊辰ノ役の費用の穴埋めとして明治元年十一月、藩の重臣小野岡右衛門と小場小伝治、川井小方、佐藤時之助といった藩財政のベテランとの間で鋳造計画が練られたのである。他国でも通用金を吹き立てて軍用金にしている事実があったし、その計画はスムーズに進んでいった。仙北郡協和村淀川字小種に小屋をかけて吹き立てることにし、十二月十七日から製造をはじめたが、久保田に送って鑑定した結果、あまりに粗悪品であったため中止となっている。
 第二回目は、明治二年一月から一カ年間、北秋田郡阿仁町の阿仁銅山二ノ又において、また二年八月から翌年一月まで五カ年間は山本郡二ツ井町荷上場の加護山でも本格的に鋳造が行なわれたわけでいずれも正確な鋳造量は不明だが、大々的につくられたことは確かなようだ。
 ところが、事態は意外な方向に発展していったのである。
 薩長の新政府が全国の金づくりを罪として処罰する――ということになった。
 ただし、明治二年五月以前のものは、罪を問わぬと発表したので、仙北郡淀川の分は罪とならぬが、阿仁や荷上場の分は法に触れることとなった。
 明治四年六月四日、政府の取調べ官が秋田にやってきて調査を開始し、その年末には十一人の大量処罪が発表された。
 前勘定奉行の佐藤時之助は「サラシ首のところ特旨を以って準流(じゅんる)十年」同じく前勘定奉行の大山茂治右衛門は「斬首のところ、特旨を以って準流十年」などの体刑であった。
 ところで、ここに不思議なことがある。一つは、秋田藩では薩長の明治政府に参加したばかりに戦争費が必要になりその戦費穴埋めとして金を鋳造したのであって、いまさら処罰とはおかしなことなのである。いま一つは、三年二月に藩がどうしたわけか、仙北郡淀川の関係者五人を独自で処罰していることである。藩が鋳造していながら処罰するとは、どうも合点のいかぬ話である。
 政府で調べる一年前のことであるから秋田藩が政府に対してカモフラージュしたとは考えられない。
 ここで思いつくのは、宝暦の<秋田騒動>であろう。やはり金を造ったことで事件が意外な方向に発展したケースである。この明治の事件にしても、宝暦の事件のように藩内の内部対立、内紛が原因ということが伝えられている。鋳造反対派が政府の取調べ官に、ことのてん末を密告したという噂が立ち、また多くの記録にも、そのように書きしるされているのである。



 秋田放送のラジオ番組『秋田の歩んだ明治百年』は、毎週月曜日〜土曜日、朝七時三〇分〜十時二〇分(再放送)に放送している。