人 その思想と生涯(10)

[PDFファイルを表示]

沢木四方吉  沢木隆子
惜しまれる天折

 梢・沢木四方吉は昭和五年四十五歳で世を去った学者である。畢生の仕事はこれからというところで、病弱のためにその頭脳には整然と組み上がった研究実績を世に問うことが許されなかったので、彼の死は天折であると惜しまれた。
 彼は学問としての美術史を初めて日本に紹介し、それ自体極めて学問的な仕事に生来の芸術への秀れた観賞眼と情熱を注ぎ入れ、真の西洋美術史の学問の基礎を我が国に植えつけた。
 慶応義塾大学派遣の海外留学生となり、ヨーロッパ諸園で美学と美術史を学び、帰朝後は母校の教授となったが、招かれて旧東京帝国大学の講師ともなった。帝大は今日では想像出来ない程の高い権威を持っていたもので、一面排他的でもあったから、私学出身の学者が招聘されるのは沢木四方吉を以て最初の最後と思われる異例のケースだと当時さわがたものだ。これは彼の学問の力量が如何に高く評価されたかを知るに足る。
 彼の晩年の宿願は西洋美術史研究によって養われた鑑賞眼と方法論を以て、日本美術の歴史的研究に立ち向かうことであった。代表作の「美術の都」は西洋のそれであるが、"日本の美術の都"が彼独自の麗文によって世に残されずして終わったことは、彼の早逝を大いなる我が国の損失となす所以であろう。
 彼は瘠型長身で色白の額は広く、近眼鏡をかけた瞳は澄んでいた。好んで縞ズボンに黒背広を着た教授スタイルは堂々たるもので、ヨーロッパでもなかなか外人にひけを取らなかった。


ビナスの謎

 彼の生命は短かったが、ほとんど死の来る日までを青年のままの若々しい情熱をかけて"真実の美"を学問の対象として追求した。美こそ神であり、神の姿を学問という理知の眼で正確にとらえることに専念したので、その純粋にしてひたむきなる余りに、友人知人には我儘なお坊っちゃん、または徹底した自我本意の人だなどと評されもしたが、体質的に詩人文士気質はなかった。性は善そのものでありながら自己の信念を押し通す段になると相手の思惑たど意に留めない。いたって茶目っけがあり、ユーモラスのつもりでも皮肉な感じを与えたりする。自分の調刺が気に入ると愉快がった。しかし自分の非を認める点では相手が意外で気抜けする程いさぎよく、『そうか、悪かったな』と心から詑びた。小泉信三・水上滝太郎の両氏は学生時代から彼の性格をよく呑みこんで終始あたたかく彼を守った親友である。
 《三田文学》は昭和六年の一月号と二月号に大きく頁を取って数多の人々による沢木四方吉追悼特集を出した。その二月号には沢木梢君の思い出と題して島崎藤村氏の爽やかな追想文も出ている。「―どうして人が亡くなった後になって、こんな風に語られる場合がそうざらにあろうとも思われない―」云々(うんぬん)の書き出しで、四方吉がミュンヘンから藤村の下宿へ夏を送りに来て、しばらくの間を隣室で暮らした思い出が室内図入りで細かく綴られている。耽美的で情熱的である一方にはなかなか人を許さないきびしさと、詩人藤村には全く散文的と思われる合理主義者だった。

[PDFファイルを表示]
ひどく潔癖で無駄なく整埋された思考が行動となる。藤村にも「書かれるような」、人と違う独自性があると考えられた。下宿はお粗末で不満だったろうと藤村の筆は静かだが、ドイツで一度喀血して友人に心配をかけた彼は、ここでも喀血した。新生の苦悩をなめつくした大人の藤村は、坊ちゃん臭の抜けない四方吉をいたわったが、頑固な程病気のショックは人に見せない。イタリアヘの憧憬と今後の仕事だけを語ってやまなかりた。死後多くの人々が語ったその散文と詩のミックスされた人間像は、四方吉の家系に遡って考えられる。
 彼としては口惜しくも成し得る仕事を為さずして結核に負けたが、日進月歩する学問の生命は芸術の生命より短いのだ。一人の学者の学術的著作は先ず十年。二十年の生命を保つことは至難と言われる。然るに彼の学問的業績は追悼号に多くの人々に語られただけで終わりとはしなかった。死後二十年を経て講義文が弟子によって論攷として出版され、三十三回忌には"沢木四方吉記念講演会"が慶応義塾大学に於て開かれ、かつての著書「美術の都」は版を新たにして出版された。その更に二年後三十九年にはミロのビーナスがルーブル宮殿から日本へ渡り、国民は一目見ようとひしめきさわいだ時、ビーナスの謎の解説者として沢木四方吉の名が勿然と甦った。ジャーナリズムは新たな認識を以て彼のビーナス研究の深さを讃え、世界の学界でも日本のかって生んだこの学者の研究以上には未だほとんど進展を見ていないと書き立てた。


死なない人

 彼の私的生涯に於ての幸せ、よき理解者であり最良の看護人でもある愛妻みね子によってあたたかい家庭に安住し得たことだが、幼少にして母と死別した彼には子もなく、半生を人知れず病魔と闘い続けた。病気の性質上訪問者を拒むかたちで寂しく死の床に臥したので、あるいは、晩年は悲劇の人だと評されもしたが、羨むべき親友を持ち、彼の蒔いた種は見事に繁って後進の学者を育てた。生あれど命なしというべき吾ら人間界にあって、先ずは死なない人の一人と言える。彼の著述は芸術を真心こめて敬愛し、良心的に学問と取り組み、誠実正直で貫いた精神の現われである上、不朽の文章家と言われるから、代表作の「美術の都」は今後も永く愛読者を静かに保って行くだろう。つい先頃NHKラジオの"わが愛読書"シリーズで、藤山愛一郎氏が「美術の都」の一部を読んで讃えていた。ヨーロッパを訪れる昨今の日本人は夥しい。旅行者達は彼の著書で頭の準備をし、帰国後の復習にまた読むと言うわけだ。ところが、彼の文章があまりに美しいので、現地で本物を見ると幻滅を感じると言う人もある。
 これを書くために私が資料をあさっている最中に、ニュースは小泉信三氏の計を告げた。当時の文科生の数は少なく、ましてや美学美術史に類似する学問の方向へ進みつつある人は同窓の中にいなかった。生粋の三田っ子であり、教授の中でも権威ある存在なのに、彼が人目には寂しげな孤独な姿だったのはやむを得ないが、小泉氏は経済学者として道も異るのに、四方吉死後三十数年も友情を行為として表わし続けた。これまた珍らしい人格者の一面である。亡き友人の遺書出版の努力は同時に未亡人への誠意の手、救いの手であった筈だ。思ってなさざるは思わぬに等し、ではないか。


別世界

彼は明治十九年十二月十六日、秋田県船川港町(現在男鹿市中心地)に沢木晨吉の五男に生まれた。同家は三百年ほど前に物品輸送港として賑わっていた船川港へ定着した。四方吉の祖父駒吉の養父に当る彦衛門は船川の小原庄助さんで、お小袖の彦さんと言われながら身上をつぶした。養子駒吉は他家から嫁をもらったので、四方吉の系図はここから始まると言ってよい。駒吉は船越の農家の子でき"絹節(きぬぶるい)"の著者として今日民族学者間で高名な鈴木平十郎重孝の愛弟子。師の影響をうけ芸術を愛し学問に志し、江戸へ出たい夢を抱いていたが、養子に行かざるを得ない当時の環境であった。沢木へ来てみれば想像外のつぶれようで、困惑の末幾度か船越へ走っては師に励まされ時には叱責されて戻ったが、旧家再建の意を固めると趣味の方は一切断念して、商売を始めた。そしてやがて見事に沢木家は立ちたおった。駒吉は子供らに学問の大切を説き家訓を定めて子孫に残した。その晩年は分限者として、また里長として世人の信望を集めて世を去ったが、愚うに合理主義分子と学者的素質は、形を変えて孫の四方吉へ伝えられたものだろう。
 四方吉は最も活気に満ちた時に駒吉の末孫として生まれ愛された。駒吉の長男晨吉は語学の才能があったらしく、高級官として渡日する海路で難破し、船川港へ漂着したロシア人を救助し、互に英語で語って通じたと言うエピソードの持ち主である。四方吉は語学の天才と言われ、

[PDFファイルを表示]
英独仏伊語は自在に話したり読んだりした。晨吉は多趣味多芸の人で人柄は鷹揚で明るい。言うなれば、情熱の花を氷柱の中へ秘めている四方吉とは反対に、父は社交的であり人情味にあふれていた。晨吉の子は六人で長女とく、長男は生後すぐ死亡、次男再吉が桐子となり、三男淳吉、四男堅吉、五男が四方吉である。晨吉は福沢諭吉に深く私淑傾倒して、男子のすべては小学校を卒えると上京させて慶応義塾へ入れた。なかなか負けじ魂の兄弟で皆優等生である。
 四方吉は淳吉、堅吉と共に塾の一部屋を占めて勉強した。水上滝太郎氏の思い出によれば、三人は常に絹物を身につけ、部屋や机上を整頓し、粗野な悪童連とは決して交わらないので、悪童は悪口を言って蔭で"別世界"と呼んだ。水上氏はその悪童の一人で間もなく親友の交わりを持っ人とは夢にも思わず、白い顔の優等生を全く別世界人ときめていたり別世界の悪名は郷里にもきこえた。晨吉は礼儀作法にはきびしい人で朕はやかましかったから、別世界を悪名とは解さず、かえって我が意を得たりとした。
 四方吉は兄達に比して一人弱々しく、風邪のひき易い薄い胸の体質である。教室でも孤独で寒むそうな坊っちゃんに見え、ガリ勉の様子でもないので、シャキシャキの都会っ子は問題にしなかったが、さて悪童には悩みの種である数学がケロッとして一人よく出来た。成績は常に優等なので運動部員の猛者連も一目置かざるを得ない。例の別世界ではよく似ているが竪吉を従兄弟(いとこ)と称していた。堅吉は分家した叔母の養子だが、如何なる親しい人にも実は兄弟だとは言わない。彼ら三人は何不自由なしとは言え、多感な年頃には三人三様の寂しさを内に秘めていた。


美しい母

 彼らの風は明治二十九年、四方吉十歳の折に死去した。続いて第二の母を迎えたがそれも数年で世を去り、第三の母が来た。彼らの実母タキは評判の美人で東京の街を歩いても人が振りかえったり立ち止まる程あか抜けた女だったと言う。駒吉の残した家訓の第一条は"家庭円満のこと"となっている。住み込みの使用人も多いし明るく賑やかな大家族の日常ではあるけれど、淳吉は母が弱いために幼年期を里子にやられたし、賢吉は分家の養子だから親を親とも呼べないで終わった。末子の四方吉は父の秘蔵息子で皆から"よもさん""よもさん"と大切に甘やかされもしたが、死別した美女の母の面影をビーナスとして脳裡に刻みつけ恋い慕った。
 少年四方吉は土蔵の中で物思いにふけり、作文がうまかった。彼は継母には無邪気にすたおに振舞い、継母は大家族の目の中で特別気をつかって四方吉を大切にした。その四方吉は、父にだけ我儘を言い、不機嫌な顔を見せた。ある時、『どうしたものか、親父の顔を見ると腹が立って来る』と、長姉に白状したので、姉や兄は大笑いした。父への愛情がそのような形を取って現われるのを周囲は笑いであたたかく見守ったのだが、結婚してもその甘えは折々出た。最愛の秘蔵息子にはぐらかされて苦笑しながら、心境を歌に詠んで人々に示す老翁の姿は、はた目には気の毒なこともある程、四方吉が冷然と散文的合理主義を断行するかに見えた。しかし、彼は胸の病と必死で闘っている時だったろう。
 兄達は郷土発展を目標に経済学を学んで父のもとへ帰ったのに、四方吉は好き好みの道を許された。文科へ入り、文学に志したのは、美しかった母への思慕が美への憧憬となり、ものを書く習性となって、内部から自然に育ったやみ難いものだった。晨吉は人々を集めては幼児にまで筆を持たせ、歌を詠め絵を描けとすすめて賞を与えて喜んでいたが、それにしてもやはり安政生まれは安政生まれの考え方で、小説家は戯作者であり、芸能人はすべて河原乞食の類である高四方吉が文科へ進むと言い出した時『文科はよろしいが軟文学をやってはならぬ。やる気なら一流の学者になれ』と言った。それでも四方吉は秘かに小説―つまり父の言う軟文学をやった。それは父への一寸したレジスタンスだったかもしれないし、歌詠みの父に知らずして影響されていたのかもしれない。結局自ら小説は捨て哲学にも志したが、やがて美学へと進路は移っていった。美術史専攻と決定したのはドイツでヴェルフリン教授の講義を聴き傾倒してからである。


水上と小泉

 明治三十九年に大学文学科へ進んだ彼は、四十一年には《三田評論》へ沢木潮鳴の筆名でエッセイを書き、小説「行く雲」は沢木うしほ、四十三年「ニイチェの超人と回帰説」は沢木梢の名で《三田文学》へ発表した。都会趣味で高踏派で、郷土臭は微塵もない彼であるが、ベンネームは秋田県男鹿海岸生まれの晨吉の末子がからみついて離れないのは面白い。父は、楽水亭繁根と号した。

[PDFファイルを表示]
 四十二年に大学部本科を卒業、九月普通部員として英語を担当。その頃永井荷風が《一田文学》の主幹となった。小説は荷風にみてもらい、自然描写をほめられ、人間描写はまだ若いと評を受けた。小説「夏より秋へ」は、若樹末郎の名で《三田文学串へ出た。これらの小説に刺戟を受け感動した水上滝太郎は、思ってもいなかった小説家を志すことになったのである。後に水上氏は沢木梢を小説の中に登場させ、我ままで手の焼ける坊ちゃんとして描いた。
 明治四十五年七月海外留学生として渡欧。大正十一年まで筆名は沢木梢で通した。留学生となってパリを経てドイツへ入り、ベルリン大学へ入学。ミュンヘン大学ではハインリッヒ・ヴュルリンの講義を聴講して西洋美術史研究の志を固めた。大正三年は第一次世界大戦勃発、ドイツには居られなくたり、日本の同盟国であるイギリスへ脱がれ、ロンドに住むこととなった。この時ドイツで親しんだ与謝野寛、晶子夫妻が帰朝組だったので、ドイツ製の羽毛ぶとんを買って郷里の父へのみやげに託した。
彼にはドイツが住みよくて、霧のロンドンは気に入らない。しきりにイタリアの旅にあこがれ続けた。大正四年の八月から十二月まで、フランス、イタリアへ旅行。パリの島崎藤村へは旅の先々から長いたよりを幾度も寄せて文通した。また、友人にも郷里の父や兄へもよくたよりを送った。
 彼は外遊によって同窓の親友水上、小泉氏らと生活を共にして親交をより深めたほか、山本鼎、秋田雨雀、小山内薫、山田耕搾、県人では小牧近江氏らとも会い、その他多くの学者芸術家と相知る機会を得た。イタリアを彼は恋人のような情熱で憧憬した。水上・小泉両氏は病弱の彼の旅行をしんじつ案じたが、四方吉は死んでもイタリアの蔵する古美術を見たいと思った。そして遂に決行した。その感動が彼に書かせた紀行論文は、後の日まで残るものとなった。


美文の粋「花の郎」

 しかし、戦乱の外国は彼に結核を宿したし、情勢は最早それ以上の留学を許さない。大正五年三月帰国。秋田の父の別荘楽水亭で半月余り静養し、すっかり健康体に復して上京、母校の教授となった、この年の五月永井荷風が文科教授と《三田文学》を退いたので、その後をうけて主幹となった。
 帰朝の時はまだ船川線開通前で、彼は追分から馬車で来た。茶臼峠で待ちうける人々の前で颯爽とした姿を見せた。
 西洋みやげの中から、碧玉の美しい指輪を見せて、これは未来の妻へ婚約の時に与えるのだと言った。家族は青い目のお嫁さんを連れ帰るかと思ったら、純日本風の上品な嫋女(たおやめ)をと言うので喜んだ。そして五年八月、姫路出身の銀行家石川氏から望み通りの令嬢を迎えた。
 大正六年、《中央公論》に乞われて「花の都」と題した紀行的研究文を発表した。この時芥川竜之助が同誌同月号に名作の「偸盗」を書いた。時の読書界は芥川に魅されていて、「偸盗」読みたさに競って《中公》を買ったが、沢木梢の「花の都」を次手に読んでこんどはこれに魅了されてしまった。堂々三十ページ、典雅清秀、沈静にして幽婉、もしこれと他に比し得るものを求めるとしたら上田敏博士の文ぐらいのものであろうか、と評された。芥川氏もこの時以来沢木棺の精緻明断な頭脳には遠く及ばない、と人に語ったと言う。大正六年「美術の都」を出版して上田敏に献じた。七年美学と美術史を担当。この頃、芥川竜乏介が慶応文科の教授に入りたい希望を持ち、四方吉のの弟子小島政二郎氏を介して熱心に申し入れ、四方吉は喜んで努力したが学校側の経済的理由などで事は成就しなかった。八年二月、芥川は四方吉に小品「窓」を献じて敬意を表した。同年八月旧第一高等学校に招かれて講演し、九月には旧東京帝国大学文学部講師となって美術史を担当した。以来帝大の美術会、史学会等で講演して該博な知識を認められた。華やかにして幸福な学者であった。

[PDFファイルを表示]
 ところが十一年の秋には再び薄い胸に病が戻って来た。東京高輪の思い出深い住居から鵠沼の前芥川氏のすまいに転届した。十二年の関東大震災では西洋から持ち帰った貴重な資料、今後の研究材料となるものの多くを焼失し、そのことは当人よりも弟子達をくやしがらせた。
 学者としての彼、人間としての彼は秩序と節度、形式と格調を尊び、男性的ないさぎよさと徹底して究める根性の持主である。彼は夥しい学生の顔と名を一ぺんで覚え、なかなか手きびしかった。常々大嫌いたものはホラ吹きと言った。講義は多くの学説に新学説を加え、すべてノートをとらせたが、一切無駄はなく同語句を二度と繰り返さない。選まれた言葉と美への彼の感動が張りつめた絃の響きのように伝えられたので、弟子達は息詰まる緊張感の中でペンを走らせたのだった。
 昭和二年には早くも職を退き、鎌倉の自邸で折々ンペとり、時たま東京へ出るに過ぎない状態となり、病は更に彼をベッドへ縛りつける日々を重ねさせるに到った。かけがえのない師として彼を慕う弟子達はベッドのまわりへ来て口述をノートした。ほとんど最後まで彼は洋書と取り組み医師が案じて何と言っても明日への希望は失わなかったのに、遂にはただ安らかに一夜寐ねたしと言うのが望みと言う日が来た。昭和五年十一月七日、まことに安らかに眠り、そのまま静かに昇天してしまった。


石燈籠

 四方吉の祖父駒吉は船川の自然港を築港して、新しい教育文化を郷土に導入したいと念願し、それは晨吉、再吉の三代に渉って困難と闘い、たくましい意欲を以て多額の私財も投じて実現を見た。この理想の故に駒吉は子や孫の教育を重く見たのだが、帰郷しない四方吉もかげの力となった。晨吉は四方吉の海外留学を記念して高台にある小学校に石段道路を造り、健康を祈念して神社に常住神主を迎えるなどした。四方吉の死を見るに及んでは自分の愛邸楽水亭をあっさり捨てて寺院に寄進した。
 教育事業面では晨吉を会長として一族一丸となり、沢木奨学会を創設し、多年多数の若人に無償の学資金を提供し続けた。この奨学会主催で毎年夏には四方吉斡旋による慶応義塾大学の教授のみならず多くの学者文化人士を迎えて歓待し、一般人に呼びかけて懸命に講習を受けさせるよう努力した。「ホラ吹きは大嫌い」と言った四方吉同様に、この一族は売名を嫌ったから郷土へつくした事績は知られていたい。
 四方吉はまた多くの美術家や出版業者を世に出すために蔭の力となった。しかし頼まれても美術記者的雑文家にはなりたくないと断った。
 職を辞して鎌倉の自邸に療養の日々を重ねるにつれて、四方吉の性格はとみに円みを加え、人なつっこく見えた。時たま案じて訪れる老父を嬉しげに迎えた。その父は、東京田園調布の別宅に居て四方吉の死を聞き、うめくように声を出して慟哭した。重いとの知らせで死の数日前に見舞った時は、わずかに首を向け得る状態ながらニッコリ笑ったが、その次は既に棺に納まって父を迎えた。
 まわりに大学関係の人々が端坐していたり晨吉はつかつかと棺の前へ進んで坐し、朗々と曹洞禅の修証義を誦経し終わると、すぐに帰宅した。未だ三十代のみね子を見るにしのびないのであった。
 墓は鶴見の総持寺で、戒名は玲梢院黙堂維庵居士である。墓石は父兄、みね子の意見一致してひかえ目なものとしたが墓石に不似合な程大きく立派な石燈籠が一対建っている。これは彼の死を惜しんだ書店主岩波氏が是非にと申し入れて彼の霊前へ献じたものである。
 沢木四方吉の著作
  (1)美術の都(大正6・日本美術院)
  (2)レオナルド・ダ・ヴインチ(大正14・東光閣書房)
  (3)西洋美術史研究下巻―ルネサンスの部(昭和6・岩波書店)
  (4)西洋美術史研究上巻―ギリシャの部(昭7・岩波書店)
  (5)西洋美術史論攷(昭和7・慶応出版社)
  (6)ギリシャ美術(昭和23・大丸出版社)
  (7)美術の都(昭和39・岩波書店)右のうち(3)以下死後の著作のすべては四方吉の弟子が編集した。
なお「美術の都」は西洋美術史に関する啓蒙的紹介、紀行に類するもので、これは文学的作品としても愛読されつつあり、死後出版の研究書は純学術的であり難解に属する専門の書である。



筆者は詩人。四方吉の兄再吉の四女。昭和四年東洋大学卒業、佐藤惣之助に師事して詩作に入る。詩集に「石の頬」「迂魚の池」他がある。裁判官の坂崎氏に嫁し、戦後は郷里に帰って高校教師を勤む



▼訂正=六月号「青柳有美」の見出し中"ドイツ帰えりの文士先生"とあるのは編集者の誤りでしたので取消します。なお青柳有美のサインは天地が逆でした。訂正いたします。