人・その思想と生涯 (7)

[PDFファイルを表示]

小杉天外  藤井達次
写実主義の先駆者

 天外小杉為蔵は、慶応元年九月十九日仙北郡六郷町に生まれ、昭和二十七年九月一日鎌倉市雪ノ下の自宅に没した。享年八十八歳、作家としてはめずらしく長命で、敗戦後の混乱期にも、病弱の身にたえながら時おり筆をとることを忘れなかった。 こうして、彼の作業は明治、大正、昭和の三代にわたったが、しょせん、彼は明治の作家であった。それは、晩学の彼をして、ついに文壇に確固たらしめた「はつ姿」から、わずか数年ののちに発表されて一世を風靡(び)した「魔風恋風」によって、彼は当時一枚三円という未曽有の高い稿料とともに、先端的な風俗を書ける作家としての名声を受けたのだが、それは同時に、純文学の世界からの追放をも意味していたからであった。天外は、大正期以後文学史上に作品を残すことができなかったのだ。
 しかし、その名は不朽である。天外はゾライズムを真先きに自分の小説にとりいれるとともに、それによって文学史上に写実主義を確立した。それは、それまで文壇をわがもの顔にふるまっていた硯友社(けんゆうしゃ)の一派─紅葉や露伴や眉山や鏡花などの小説作法に対して、敢然として挑んだ革命の戦いであった。


ディケンズに魅せられ

 天外の生まれた六郷町は、秋田県下の城下町の中でも、秋田市についで寺院の多い町として知られ、その数は二十七を数える。これらの寺々は、町家の外側の北、東、南に配置され、杉小立に囲まれた寺町を形成している。その一つに小杉家の墓地がある。善証寺門を入って左側の道路わきで、中央に小杉家累世の墓、右手に天外の両親の墓、そして左手に故人とゆかりの深かった板谷大曲市長夫人かつ子さんが、鎌倉から分骨して埋葬した、天外と、終生その内助の功をうたわれた幸夫人の墓とがある。両親の墓は大正十年秋に天外が建立したもので、裏には天外の撰になる墓誌が刻まれている。
 天外の父を豊治と言った。醤油製造、搾油業のほか呉服、古着も扱う商人であったが、その墓誌にもあるように、若いころから気骨のある男で、維新に際しては若者数十人を糾合して勤王有志隊を組織、藩と行動を共にした熱血漢でもあった。それだけに、町人ながら、せがれを熊谷松陰や岩谷順太郎の塾へ通わせて漢学を学ばせようとしたのだろう。
 しかし天外には、父の商売を継ぐ気はなかったらしい。きびしくされた漢学をきらったとも、政治家を志したともいわれるが、ともかく明治十九年、二十二歳の年に天外は上京した。父は天外のこの挙に反対で、母ソノがこっそり十七円を用立てて与えた。新調の木綿飛白(かすり)に小倉の袴、それに少し重いが長持ちするようにと、特別丈夫に作られた足駄ばきといういでたちであった。まだ奥羽線が未着工のころで、小柄でひ弱だった天外も、汽車に乗れる黒沢尻まで、横手をかかって歩いてゆかねばならなかった。
 東京ではイギリス法律学校(現中央大学)へ通ったが一年余でやめていったん帰郷、ふたたび上京して、今度は国民英学塾へはいった。英語はイーストレーキからも学んだが、当時もっとも秀れた英学者といわれた井上十吉の講じたディケンズの「クリスマス・キャロル」が彼の心をとらえた。天外は、自分もあのような小説を書いてみたいと思った。


異端児・緑雨に拾われて

 やがて天外は、同じ六郷出身の小西正太郎、藤井新八郎と三人で自炊生活をしながら、小説の筆をとるようになった。のち洋行して画家となった小西は当時美校の生徒で、後年天外の「魔風恋風」のモデルに扱われたことはあまりにも有名な話である。
 藤井は私の父で、小西とは姻戚につながっていた。そのころは一高の生徒だった。私の父は、天外のかわりに時々彼の作品を新聞社やえらい作家の家へ持ち込んで歩いたが、ほとんど相手にされなかったらしい。生前父がよく話題にのぼせていた小説に『どろどろ姫』というのがあり、父がそれを尾崎紅葉のととろへ持ち込んだら、筋をかいつまんで話してみろといわれて得意になって弁じたものだった、というのが、父の夕食後の常の自慢話であった。

[PDFファイルを表示]
 明治二十四年、いよいよ作家をもって立つ決心をした天外が、作品を持って最初に訪ねたのは一番心酔していた森鴎外だったが、鴎外には『小説は天分のあるものでなければ書けないものだ。君は別の仕事をさがしたらどうだい』と無下に断られ、さらに叩いた紅葉の門でもかえりみられなかった。時に天外は二十七歳であった。
 その天外を拾って弟子にしたのが斎藤緑雨だった。緑雨は天外より二つ年下であった。しかし早熟なこの男は、当時すでに正直正太夫の名で逍遥、四迷、美妙、紅葉らの諸大家を皮肉るような短評をもって、異色ある文芸批評家として鋭峰をみせ、また文壇小説にあきたらずとして、自ら小説の筆をとった「かくれんぼ」「油地獄」で、作家としても文名をはせていた。
 天外は、それまで草秀という筆名をつかっていたが、緑雨がすすめて、李白の詩の「三山半落青天外」から天外を号と定めた。二人はまた、同じ下宿で共同自炊もしたが、これは二ヵ月で解消している。
 とまれ、緑雨は、天外の処女作「酔骨録」と「五つ紋」「哲学者」の三篇に、自分の「売花翁」を加えて「反故袋」という短篇集を編み、明治二十五年に春陽堂から出してやっている。 
しかし、その年の十二月、緑雨は自分が記者をしている、当時一流新聞の《国会》に天外の「改良若旦那」をのせながら、その稿料は自分がつかって天外へは渡さなかった。このような例は文壇にままあることであった。さらに二十八年には、緑雨が主幹となって《時論日報》が創刊され、天外はここの小説担当の記者となったが、ついに一銭の給料ももらわないまま半月で新聞が廃刊になったこともあった。
 
余談だが、天外の村から一里ほど離れた払田村(現六郷町)に、天外に一年おくれて生まれた後藤宙外もこの頃上京し、天外を下宿に訪ねたことから同居していた緑雨と知り、その縁で誘われて時論日報の社員になった。
 
この間も、天外は「狂菩薩」「奇病」「改良奥様」など数篇の小説を書いているが、いずれも師の緑雨にならった諷刺、滑稽をねらった政治小説ふうのものだった。そして、その傾向のもっとも顕著だったものとして、明治二十八年、二十回にわたって《読売新聞》に書いた「改良若殿」がある。貴族政治家の内情を暴露し嘲笑したもので、皮相的というきらいはあったが、政治・社会の裏面をさぐったところに新味があり、田岡嶺雲らが書評でほめた。この作品は、翌年博文館の《文芸倶楽部》に再掲され、ようやく天外の名が文壇的に注目されだした。


宙外に焦慮を打ちあける

 まもなく天外は、胸を患った。二十九年八月、彼は郷里にあって、静養の床から東京にいる後藤宙外に宛て
 ‥小生の病気は近頃やや悪く赤い痰をまたまた吐き申候、自 分一人なれば遠国にも尊いところにも参るべきなれど所々方 々に、お百度や何かして呉れ候もの有之候へば、この通り、 あてやかなお身体を地球上に置き申候、宜しく御推察被下度 候、此の分ならぱ当分遊んで養生するつもりに候、一葉しき りと鴎外にもて候様なるが小生もこの次よりは誰ぞの名を(女 の)かりて出さうかと思い居候、小生の如きは到底野郎にそね まれ候いしに候へばこのところ何とか一工夫仕度存候‥。
と手紙を書き送っている。この手紙は宙外の生家をあずかる六郷町後藤稜次郎氏の手許にあるが、お百度をふんで天外の快癒を祈願してくれる人が母親その人であるか、あるいは当時婚約していた、のちの幸夫人であるかは定かではない。あるいはその双方かもしれない。
 二十九年といえば、宙外はすでに東京専門学校(現早稲田大学)を卒え、坪内逍遥の推輓で《早稲田文学》に記者としてあり、「ありのすさび」によって文壇的にも天外に一歩先んじていた時期である。また、一度は自分を拒絶した鴎外先生が、たかが女の樋口一葉をしきりにもてはやすさまを郷里の病床にあってながめながら、ぬきがたい焦燥感にとらわれているさまが読みとれて興味深いものがある。その想念は、肉体の病以上に天外を苦しめ、その証拠か、この前後の作品には、広津柳浪や川上眉山の示した観念小説の作風を模してみたり、泉鏡花の抒情的な美文を真似てみたり、いろいろと苦悩のあとがうかがわれるのである。


[PDFファイルを表示]
ゾラをとらえて開眼

 そして結局、天外の辿り得たものは、フランス自然派のエミール=ゾラであった。ゾラは、早くも二十二年には鴎外によって紹介され、以後も折にふれて日本の文学界を刺げきしてきたが、後にも述ぺるように、ゾラを作品の中に真にとりいれたのは天外が最初であった。彼はゾラの手法に学んで、人間の欲望の執拗さを正確に書こうとした。
 そして、具体的に彼へ転機を与えてくれたのは、三十年四月、宙外や島村抱月らと丁酉(ていゆう)文社を結んだことだろう。五月には文社の《新著月刊》に「珈琲店」を発表した。(丁酉文社は、同郷の大地主小西伝助が資金を援助して作られたものだが、十五号までで長くは続かなかったし、天外は、もっと早く途中から脱退している。)
 二十九年から三十二年までは、天外にとって過渡的動揺期といわれている。
「斑排店」「ひな歌」「はれ小袖」「かこい者」「みだれ髪」などが、この時期の習作といえる作品であった。
 そして三十二年四月に「蛇いちご」が春陽堂から出された。"蛇いちご"とあだなされる銘酒屋の女を題材にした通俗的な中篇で、作品的にはさしたる反響もよばなかったが、天外はその序文に
 ‥長い間私の頭脳を支配していた主権者たる理想は倒れてし まった。私の頭脳に革命の乱が起ったのである..
と書いて、作風の転換を暗示した。
 だが、翌三十三年八月、ついに『はつ姿』を世に問うて、ゾライズムを新しい踏み台とした天外文学の旗印を明らかにしたのであった。五月、この小説が《二六薪報》に連載された時から、文壇では論議のまとになっていたが、抱月が『社会の一面を忌憚なく写した』といってほめたのをはじめ、概して、写実の新しさを認める好評が多かった。
 なかには、構成から登場人物まで「ナナ」の借り物のため日本の現実にそぐわず支離滅裂だ、という評(帝国文学)もあった。たしかに、フランスにおける女優という職業と地位を、女工あがりの清元語りとイコールにする無理は、筋立てのうえにいくらかの破綻や付会を招いたが、しかし、例えば主人公のお俊が芸人に売られて初舞台に出た、その日の寄席の模様を精細に描写するなど、硯友社系の作家のように小説が単なる物語に流れることをくいとめた天外の描写の力と新しさとは、それを充分におぎなってあまりあるものであった。
 ことに、その序文がうけた。
 ‥我はわが嗜好を満たさんとして詩を作らざるなり、況(いわ ん)や評家の嗜好に投ぜんとしてをや‥‥我はただ読者の空想 をして、読者の官能が猶(な)ほ実世間の事に感ずるが如く感 ぜしむるを以てわが作の能事足れりとなさんのみ‥‥
「はつ姿」は、のちに「恋と恋」「にせ紫」が書かれて三部作として完成したが、後世の評者は、その続篇を蛇足だったといっている。


「はつ姿」から「はやリ唄」へ

 三十五年、中篇小説「はやり唄」が出て、ゾライズムの第二作として注目された。彼はこの作品にも序文をつけ
 ‥自然は自然である、善でも無い、美でも無い、醜でも無い 、ただ或時代の、或国の、或人が自然の一角を促へて、勝手 に善悪美醜の名を付けるのだ。小説また想界の自然である、 善悪美醜の執(いずれ)に対しても、叙す可し、或は叙す可か らずと羅絆せらるる理窟はない、ただ読者をして、読者の官 能が自然界の現象の感触するが如く、俗中の現象を明瞭に空 想せしむれば、それで沢山なのだ‥‥。
と書いた。自然主義リアリズムの創作方法についての確信のようなものだった。「はやり唄」は、北関東の大地主円城寺家の家つきの美貌な人妻雪江をヒロインにしている。彼女は洋画家である夫が芸者を囲っていたことを知り、その芸者をモデルに書いた裸体画を夫の留守中に引裂く。以来夫婦の仲は冷く、夫は相変らず芸者と逢っている。雪江は淫蕩な性格の持ち主で、彼女の妹を診察に来た医師と通ずる。ある日、湯上りに酒をのみ、温室の中で挑まれての出来ごとだった。二人の関係をヤユするはやり唄が村人の口にのぼるころ、雪江と医者は村をはなれて東京へ出る。

[PDFファイルを表示]
 こんな筋書きの中で天外は、雪江という女性の中に遺伝的な色好みの傾向があり、それが湯上り、アルコール、温室の湿った暖さ、夫の裏切りという客観条件の中で、行為として顕化することにしているのである。つまり彼は、ゾラの、社会環境と遺伝が人間を支配するという科学的リアリズムを日本の社会へ適用させたのである。
 この二作は、田山花袋を直接に刺戟して、彼に「重右工門の最後」を書かせ、さらに島崎藤村もこれに影響されて「旧主人」を書いた。まさに、硯友社文学にかわった日本の自然主義の萌芽が、天外によってもたらされたことを大きく特筆しておきたい。


「魔風恋風」の登場

 かくして明治三十六年二月には、《読売》紙上に「魔風恋風」が登場するのであるが、それの事情は、尾崎紅葉の読売新聞退社にからんでいておもしろい。
 紅葉は文科大学の学生時代に読売に入社し、文名があがるにしたがい大学を中退している。在社十数年におよび、この間「金色夜又」で自らの、また読売の声価をたかめもした。紅葉と読売は不即不離の縁につながっていたはずであった。しかし紅葉が病いを得ると、約束の「金色夜又」の続篇を書かず、ぶらぶらしながら月給百円をとっているという不満から、三十五年八月、ついに読売は紅葉を追い出してしまったのである。紅葉を敵にすることは、硯友社によって主流を占められていた文壇全体へ喧嘩を売ることにひとしかった。まさにそのとおり、読売は鏡花に執筆を断られ、眉山や柳浪にも背を向けられた。硯友社系の文士への手がかりを失った読売は、その秋、硯友社以外のもっとも有力な作家として小杉天外に白羽の矢をたてたのである。
 天外はこの時すでに三十八歳に達していた。胸の病気は克服したが、四年ほど前から新たに神経衰弱の持病に苦しみ、しかも病気勝ちな妻と娘にも金がかかったので、貧乏のどん底生活にあった。天外は、健康と生活のたて直しのため、師の緑雨が居た小田原に彼を頼って移り住んでいた。そうした天外に、読売からの注文は早天の慈雨だったのである。前の二作で名は認められたとはいえ、当時の《読売》は文芸作品の発表の場としては最高の桧舞台であり、天外はそれに自分の立直りのいっさいを賭ける気持で執筆にとりかかったのである。
「魔風恋風」は、このような背景のもとで生まれた。それが発表されると、当時あこがれの的であった帝国大学生と女学生の恋愛を扱ったこの小説の人気は、いやがうえにも湧いたのであった。新聞は刷り増しをして売りに売った。読売は「金色夜又」を失ってから「魔風恋風」によって立直ったといわれた。流行歌にうたわれ、三十八年には劇界新旧両派が競演の形でこれを劇化上演した。歌舞伎は歌右ェ門、羽左ェ門、幸四郎、新派は伊井、河合、喜多村が主演した。
 だが、その人気は、都会的なインテリの大胆な恋愛を通俗的に扱った物語りへの入気であった。天外はその代償としてこの四年間、病苦と貧困との戦いの中に求め続けてきた純粋な文学への希求を、捨てさらねばならなかった。皮肉なことは、彼が新しい文学のために苦労して学び身につけたゾラ流の人間観察や性格分析や情景描写は、そのまゝ新しい通俗小説を書く武器となったことである。
 岩城準太郎が「明治文学史」の中で
 ‥元来彼は、複雑な舞台と人物を、自由にこなし得る豊富な 才能をもった作家で、そして技巧の熟練と共に筋の変化、結 構の曲折波瀾が益々華やかになってゆくにつれ、それが自然 と興味の中心に傾いて、意識せぬうちに通俗作家に堕ちてし まった‥‥
と書いているのは、けだし当を得た評であろう。文学史的には、天外の意義はこのあたりで終っている。
「魔風恋風」のあとの主な作品には、三十九年の「コブシ」と四十一年の「長者星」とがあり、ともに《読売》に連載された。とくに後者はゾラの「金」にヒントを得て書かれたといわれ、実業界の内幕を暴露しようとし、当時の社会的な事件、鐘紡株事件や森田草平と平塚らいてうの情死未遂事件などもおりまぜているが、結局は通俗小説の域を脱せなかったようだ。
 四十三年に天外は報知新聞に移り、大正三年までいて同紙に「伊豆乃頼朝」などを書いた。こうして、大正、昭和期にも少なからずの作品を発表しているが、新文学の抬頭の波に洗い流されて、ついに昔日の境地をほうふつさせる作品を生み出せずにおわっている。


[PDFファイルを表示]
死にのぞんで洗礼を受く

 晩年の天外について、幸夫人みずから編んだ年譜によれば、昭和二十二年「くだん草紙」百三十枚を大仏次郎経営の雑誌《苦楽》に頼まれて書いている。戦後初めての執筆で、のち単行本になった。この本をかつて読んだことのある筆者の知友栗林新一郎氏は『郷里の生家の隣りの又井家をモデルに書いた小説だということで読ませてもらったが、藤村の「夜明け前」を思わせる雄渾な筆致で力作であった。しかし後半心なしか乱れが感ぜられた』とその感想を語っているが、根気強く文学道一途の精進を重ねてきた天外にも、ようやく劣えのきざしだったのだろうか。
 さらに幸夫人は書いている。
 ‥二十三年三月、芸術院会員となる。この年五月、娘文子死 去。九月、宮中にて御陪食を仰せつかる、ロダンの芸術のお 話もした。十二月の《週刊朝日》に金婚式の写真出づ
 ‥二十六年 「姉日記」九月十五日、老人の日記念にとて、 第一回を清書。紙数四枚。米寿の記念作とて大努力をした物 なり。
 そして二十七年を迎える。「馬鹿になる近道」と「紅夢楼」を書いた。戦後の作品はこれを合せても六篇しかない。
 前の年の冬から急に健康が衰え出し、十二月二十六日には心臓に故障を起したが、この時には奇蹟的に回復した。この日に洗礼を受けてステファノの霊名をもらっている。二十七年九月一日朝永眠。鎌倉の建長寺に葬られた。晩年親交のあった大仏次郎が墓誌銘を撰書した。


内助の夫人、才媛の令嬢

 夫人幸は、天外より十年余り長生きし三十九年に死亡した。その人について板谷カツ夫人は
『内助の功というのは、あの人のためにある言葉じゃないでしょうか。天外はひどく気むづかしい人で、普段は私をひどく可愛がってくれるのに、なにげなく廊下を足早やに歩いて何度叱られたことか。隣りに白木屋頭取りの邸宅があり、娘さんがピアノの練習を始めると「仕事の邪魔だから止めさせろ!」とどなり、その都度夫人が気まずい思いをしながら頼みにいっていました。こんな天外に二六時中気をくばって、新聞の記事などはすべて夫人が読んで、お食事の時に話してきかせていました』
 と語っている。
  
  註・板谷カツ夫人は、父の寺田隆蔵氏(元六郷町長)が生前 天外と親交があり、その縁で夫人が秋田高女を卒業した大正 十二年から一年余り小杉家に寄寓して行儀を見習っていた。 天外も生家を払ってからは、帰郷すると寺田家に身を寄せた 。なお板谷氏の長女敏子さん(現佐々木姓・河辺町和田郵便局 長)も終戦直後に小杉家に寄宿、そこで天外の一人娘文子の病 床の世話をし、その死に際会した。

 幸夫人は加賀藩の士族の出で牛込で神官をしていた森川正義の娘だったが、継母のためその境遇は幸せせず、寺小屋にも充分通わせもらえなかったらしい。それで父親が天外に頼んで嫁にしてもらったが、二人はお互いにもっと成長する必要があるからと、せまい一室に机を並べて勉強し、長い婚約期間天外はついに彼女に一指もふれなかったという。この話は板谷夫人が夫人から直接に聞いた話である。
 二人が結婚したのは「珈琲店」を書いた明治三十年、天外三十三歳の時だ。三十二年に長女文子が生まれている。彼女は文字どおりの才媛で英仏語に通じ、世界三大国女流会議に出席のため三度も外遊したほどである。しかも日本舞踊の名取りで、とくに"保名狂乱"を得意としその舞姿で婦人雑誌の口絵を飾ったこともある。和魂洋才型の美女であった。
 大正十三年、当時東大法学部教授の高柳賢三(現憲法調査会会長)に嫁した。戦後、高柳が東京裁判で南大将の弁護にあたった時、文子は夫を助けて資料の整理、原稿の清書などに寝食を忘れるほどつくした。とくにひどい食糧難時代のこと、彼女は自分の食べる分を割いて夫のために充分を与え続けた。裁判が終って心のはりが緩んだ時、彼女は栄養失調のためにもはや再起できない体になっていた。娘の死を見とどけてやりたいという天外夫妻の願いによって、鎌倉の生家に帰った文子は──そして天外自慢の一粒種は、こうして逝った。
 鎌倉に、宏荘な書庫とともに建てた邸宅はいま高柳氏が管理している。小杉天外その人の血縁は今絶えてない。郷里六郷にも、その人を顕彰する何ものもないのを私はさびしいと思う。

▼本稿は資料面で六郷町栗林新一郎氏に負うところが多かったことを付記する。



 明治三十七年生。北大農科卒後さらに東京医専に進み医師。昭和四年に秋田女子師範で生物学を講じたこともある。昭和三十八年以降男鹿保健所長。父新八郎氏は秋中、一高、東大卒後各病院長を歴任、のち郷里六郷町で開業、六郷町長を勤めたこともある。天外と親交があった。