秋田力士伝

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力士群像(上)  〜荒谷力柴亭〜

 桑ノ弓に始まって能代潟に至ると、残る秋田力士は、伊勢ケ浜三代(清瀬、幡瀬、照国)というわけだが、その前に、羅列で恐縮だけれども、こういう機会はまたとないので、二度ほどにわたって県北から順次忘れられない関取衆を登場させたい。読者諸賢には休憩室で壁模様を眺めるような心ぐみでお読み頂きたい。

小兵関取

 敗戦で、懐かしい両国の国技館がGHQに持ってゆかれた。なんでも風船爆弾などという頓狂な兵器の製造場面だったからというが、名前もメモリアルホールと改名してしまった。蔵前に落ち着くまで、しばし浜町やら大阪堂島やらと流浪する、その初パナは神宮の外苑相撲場。雨が降れば、江戸時代に逆戻りの入れかけ。かくいう筆者も、新進吉葉が、相撲チームの名ピッチャー信州山を得意の蹴たぐりで倒したとき、白雨ハイ然、ほうほうのていで逃げ出した記憶がある。
 それはさておき、二十二年頃のある日観戦していると取組の終わったばかり、まだ吐く息もせわしいくらいの小坂川が隣に坐ったので弁じていると「わしは左一本で取ってるようなもんだけど、このとおり指が曲らなくっちゃあ、フンドシに指がかかりもしねえ」とボソボソこぼしていた。なるほど、彼の左の人さし指(だったと思うが)が、ほとんど曲らぬ。彼が、二年ばかりたって尻から四枚目に入幕した時は、涙が出る程嬉しかった。あいつは強い、あいつはだらしがねえなんて岡目八目連は無責任なことをいうが彼らには素人のわからぬ苦労があるもんだ、とそれ以来筆者は思っている。

 小坂川は四股名の如く鹿角郡小坂鉱山新町の産。取りさかりの頃も二十貫プラプラという小兵だが、例の左を差してくい下がるとなかなかしぶとく、下手ひねりや出し投げで奮戦したものだ。今プロレスで活躍している芳ノ里と投げ合って投げ勝った一番や、巨漢楯甲にきき腕を極められながら、下手投げで土俵の外に投げ出したのが眼に残る。一度落ちてまた入幕し、すぐまた十両に戻り、二十八年には、剛力潮錦と十両優勝を争い不得意の右四つになりながら、下手投げで攻めわずかに、長身の潮錦に上手投を打ち返されて長蛇を逸したこともあった。この時既に三十を越えていたので、最期の残光のようなもんで入幕はかなわなかった。一方の潮錦は、幕内上位で活躍し、年寄式秀として、端然と検査席から土俵を見上げている。

 一体に県北は好力士沸底であるが、ことに鹿角は少ない。あとにも先にも入幕したのは彼ひとり。有望だった豊瀬川(花輪町柴平)も物にならず、戦後、薬師山という元十両や春秋園事件の残党中ノ里らの草相撲にまじって興行しているのを見かけた。同じ伊勢浜門の榊川と国体選手になって、一般の部に出ていると聞いたこともあるが――なにせこの郡は旧南部領。桃源郷のような別天地で啄木の歌にも著名なうえ、碩学湖南内藤虎次郎博士や作家石川達三氏を生み、小坂や尾去沢などは故久原房之助経営の洋館始め、おおかた泥臭い秋田らしさが無く、従ってムクツケキ相撲取りで名をなそうなんて魂胆がなかろうというもの。
 小兵と言えば、隣の北秋田郡から大正六年春に入幕した一湊が出ている。今の森吉町米内沢の人で、四枚目に二度上ったから小坂川よりは強かったが、わずか七場所で退却。十五場所以上保てなければ、真の幕内力士とは言いかねる。さ鮎たばしる阿仁川をさかのぼって、一昨年延長した阿仁合線の新らしい駅荒瀬からは、伝説の怪力士名山源太左衛門が出ていることは第一回目に述べたとおり。また一湊と同郷に、中国相撲雲早山の門下という羽立山勇吉がいる。今から十二、三年前、小生、ベースボールマガジン社の雑誌「相撲」に紹介したが、その碑が、森吉町の浦田かどっかにあったはずで、昨今どうなっているか。

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叔父・甥力士

 船橋聖一氏の書いたものの中に「私の小学校の友だちに、木越君という人があった。膂力すこぶるまさり、いつも組の先頭に立って、みんなより首一つ、高かった……」に始まる一文がある。この木越君が、十両で活躍した大矢時信也。小畑知事と同郷の田代町。もっとも旧山瀬の方だが。ところで船橋氏は、この文を次のように結んでいる。
「……するうちに、とうとう三段目に落ちて、いつとなく彼の名前は番付から消えてしまった。
 大矢崎は、たまたま私の学友だから、こうして彼の出世と転落の歴史を見届ける者がいたが、誰も知らずどの記録にも残らずして空しく消えて行く大多数の力士たちの運命ほど悲惨なものはあるまい。
 かつて笠置山がいった。

『新弟子の親御たちに、うちのむすこは見こみありましょうかと聞かれる程つらいことはない。文壇だってそうでしょうが、功成り名とげるのはほんの少数ですからなあ』」

 船橋氏は文中尾車部屋にはいったと書いているが、実際は、花形力士三杉磯の弟でしの花籠部屋だ。
 彼一世一代の栄誉は、明治神宮選手権の第一回に室川に続いて三位、第二回にも秋田力士のひとり新海に続いて準優勝をしたことで、そのころは怪力と長身でかなり有望視された。船橋氏の言うように、三段目まで落ちて満州に渡った。

 さてそれより二十年。再び番付に大矢崎の四股名があらわれ、突張りを武器にとうとう十両に突入したことは、最近のことであり耳新らしい。この二代目は、前記大矢崎の兄で、岩瀬に麹屋を営んでいた木越氏の次男。つまり甥である。二代目も御承知のとおりの巨漢、入幕も至難ではあるまいと思えたが、なにしろ角界入りしたとき既に二十二才、大事な相撲のカンを覚えるのには少し遅すぎた。叔父さんより早くあきらめよくして廃業してしまった。入門間もなく部屋を訪れた際、「君の叔父さんのことを船橋氏が書いているから頑張り給え」と言ったが、ピンとこないふうであった。


経営者大ノ海

 山本郡も決して力士を多く産しているわけではないが、何しろ名大関大蛇潟とへたな大関より有名な錦島を出しているので質的には決して他に見劣りがしない。

 最近の人では、能代から大ノ浦一広が出て、三十一年秋以来、六場所幕尻に居た。力は、一湊と小坂川の中間ぐらいだが、からだがなく、下手からの投げがあるくらいであった。元来、下手からの技は大物の用いぬ所で、大鵬がよく下手からの技を用いるのをつい先ごろまで非難されていたこと御承知のとおり。それでも大ノ浦は、二丁投げなんていう思い切ったこともやり、四十貰の巨漢東海を掬い投げでほうり投げる目ざましさもあったが、土俵は小坂川程も目立たなかった。今をときめく大鵬も能代の人の二世で、墓参に立ち寄ることがあるらしい。そう言えば、納谷という姓は、あそこいらに多い。軍配のバッジをつけた能代大鵬会々員に会うことがあるが、同じ県北でも港町だけあって、角界には縁が少なくないわけだ。錦島の項で書いた高島老のように呼び出し奴(やっこ)になった人さ、え居るくらいだから。
 ところで、この大ノ浦の師匠花籠(元の大ノ海)こそ部屋経営者としては、錦島を遥かにしのぐ切れ者だ。この人の入幕が、昭和十九年秋で、既に二十九才だったのは、この人の入門事情による。当時彼は秋田十七連隊に入隊していたが、郷土の先輩出羽湊が勧誘に来たくらい有望兵隊さん。断わり断わりしているうちに、天下の日の下開山玉錦が、カオで連隊長を動かし弟子入りさせたのである。出身は、南秋田郡井川村。

 名うての荒稽古の玉錦にきたえられたが、こういう晩成力士はどうしてもカンが悪く、得意の左四つガップリになるとさすがの栃錦もサジを投げて引き分けたくらいの守勢一方で、戦争中であったら敢闘精神欠除でケンセキ処分をくう所。以来三枚目を最高位に前後十六場所、まずまず好個の中堅力士として終始し、二十六年秋十両に落ちた。三十五才。この後が彼の本領発揮で、力士時代から、巡業に加わりながらも、他のノンキな連中と違って土地の有望力士をスカウトしては、二所ノ関親方にあずけておいた抜け目なさ。引退するや、若ノ花、若ノ海を引きつれて芝田山部屋を作り、ついで、三杉磯未亡人から花籠の株を買って、当時としては画期的な山の手(阿佐谷)にモダンな花籠部屋を建築した。大分落ち着いた世相とは言え、まだまだ一般の世帯でも維持の容易でない時に、みずから買い出しをする、稽古もつける、買い手のない小相撲一行を売り込む、という苦労がみのって、若ノ花が横綱に若ノ海、若秩父、若三杉(今の大豪)が相ついで三役にはいるというぐあい。始め、新弟子五人から出発したのが、十両に大ノ浦、若ノ里、沢風、若天竜ら続々突入し、現在若ノ花の二子山一統が抜けたあとでさえ、幕内三名、十両四名、幕下四十名を擁する大部屋。郷土の先郷照国と並んで三役も踏まない大ノ海が、理事の要職を占めて声望隆々たるのは、まさに異数のことである。由来、正月号でも述べたように、秋田力士には、錦島、能代潟流のポクトツ居士と江戸っ子そこのけの才気喚発とがいるが、この人は力士時代はポクトツ鈍重型、年寄、経営者としてはタンゲイすべからざる才人として、秋田力士の両方の型をかね備えている。

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 彼自身の手記などを見ると、ザンギリ頭の二年しか教えを受けない玉錦なのに相撲の手だけでなく、人としての玉錦、教育者としての玉錦から多くのものを学んだと言っている。年をくっていたからでもあろうが、なかなかもって並みの眼力ではないことがうかがえる。
 今、年寄音羽山として彼を助けている"掛け投げ"の若ノ海も同じ井川村の今戸出身。相撲ぶりは、師匠より数等上でむしろ若ノ花の影響がうかがえる。大正の横綱で、久松の異名ある美男子力士鳳という人がいる。この人は、ケンケンという得意技で鳴らした人だが、わが若ノ海の"かけ投げ"は、まさにこのケンケンである。鳳のは、小手に巻くと同時に内から足をからんで投げる。一回で決めないで片足飛びをしながら相手を引きずり廻して倒すのだ。ケンケン飛び(キジの跳ねる様)というわけ。若ノ海のは、ちょっと趣きが異なっていて、四つに組んで先に内掛けに行き、ついで下手なり上手なりから投げを打ってケンケンという手順の違いがあった。あの小さいからだで三役入りをし、上位と中軸を往復したのだから弱かろうはずがない。

 明治の名大関で、年寄としては花籠を名乗った荒岩の四股名を、若ノ海は頂戴に及んだけれども、気がさしたかして間もなく旧に復した。
 四股名ついでに言えば、名横綱若ノ花を二代目と知る人が存外少ないが、初代はだれあろう、わが大ノ海なのだ。幕下まで、ずうっと若ノ花で取って、十両入りの頃、大ノ海と改めた。戦争中でもあるし、日本海にも近いので、先輩、玉ノ海をうわまわり、神風の向こうを張ったのであろう。
 同じ南秋からは、緋縅(ひおどし)が出ている。出生は昭和町大久保。郷土の先輩錦島門下で、本名鎌田全吉変じて緋縅力弥というどえらい四股名を、下っぱの頃から名乗り、二十五年春、幕尻にはいった。これも晩成で二十七才。金足農業出身だったはずだから相撲が巧くてよいはずだが、風貌から取り口から能代潟ばりで、悪いことに足腰が先輩程よくない。従って通算すれば二十場所以上も幕に居たが、その間四度も十両に落ち、今の清ノ森程ではないが相当のエレベーター・ボーイであった。従って最高位もせいぜい十枚目どまり。
 この人の相撲で記憶に残るのは、十両時代気っプのいい鳳竜が飛びこむのを右上手を取るなりぐいと吊り下げて右に振り飛ばした。つかみ投げの一手。あの堂々たる体躯風貌。三役疑いなしと言いたくなる貫禄だった。それから晩年の名寄が、左差し、差し手を上げて型の如く寄るのを下手から強引に打棄ってしまった。この人の得意は、こうした打棄りか、前に出れば吊りであった。


足取り三右衛門

 さて紙数も尽きたが、最後に男鹿の戸賀出身大浪三治の登場を願おう。
 実にこの人は手が長く、必然的に得意は足取り。自分の得意は足取りと明言したのはあとにも先にも彼ひとり。稽古場で足を取られて目をシロクロさせた双葉山が、以来「三右衛門は強い」を連発したという。彼三右衛門(ニックネームだが)、実際かなりの力を持っていて、七年春には八勝三敗で十両優勝。十七場所幕にあり、三十三才の昭和十四年夏は、手取りの両国などを倒して九勝し、彼一代の最高位、三枚目に上った。
 巨人男女ノ川を堂々と寄切って金星をあげたはいいが、翌日、前田山のシンラツな張り手を長い顔に何発もかまされてヘナヘナと土俵を割ったとんだ仇討ち場面は、人の好さそうな大浪だけ気の毒ながらユーモラスな一コマであった。
 一時、太平山を名乗ったが荒神様を恐れてか、すぐ大浪に戻った。
 彼ひとり秋田力士の型からとび離れて真黒な顔、長い手足、おびんずる様のように光ったひたい、そして、時折思い出したようにヒョイと足を取って敵のどぎもを抜く、風変りな、忘れられない存在ではあった。