秋田の人人(8)

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奈良磐松  武塙三山

 秋田市金足村は、合併以前は南秋田郡領であった。十三の部落から成る大村である。小泉部落に奈良家、黒川部落に三浦家という代たの豪農がいて、この二人は大喧嘩をした。三浦は奈良に向って君は単に南秋田郡のみならず、秋田県における金持であるが、おれの山の木の一本一本に、一厘銭をむすぶほどのお金を持っているか。と云った。これに対して奈良は、それじゃ君は、おれの秋の田の刈り取った稲株の一つ一つに、一厘銭をつなぐほどのお金を持っているのかと、問い返した。この喧嘩は勝負なしに終った。
 奈良家は、地主王国の秋田県においても、二位か三位の田地持ちであり、三浦家は山林持ちであるから、これを巧みに表現するつくり話であろう。というものもあるが、或は本当にあった喧嘩かも知れない。金足村は、私の生れ育った井川村井内部落とは山道で結ばれ、両村民の結婚も多く、村の人たちは日々往来しているが、小泉の旦那と云えば奈良家のことであり、黒川の旦那と云えば三浦家を指し、容易に近づき難き城郭として、はるかに眺めているにすぎなかった。
 その後、時勢は大きく幾変転して、私は秋田市第十二代市長となったとき、金足村を合併し、奈良家幾代目かの継承人奈良恭三郎氏は秋田市収入役(今は退任)三浦家の長子三浦盛典氏は秋田市商工課長(今は県会議員)として、私の許に働いてくれた。この両家とも、農地改革によって、田地は没収されたが、農地以外の財産の総積は、依然として秋田県における金持であるが、両氏とも相前後して村長であった関係上、人材の徒食を惜しみ、市役所入りをすすめたのであった。若し世が平凡に回転していたならば、秋田市を十数里の外の山中育ちの私が、県都の市長に拾われるようなことはなかったろうし、秋田県屈指の旦那の総領たちが、私の許に、時には散々小言を云われながらの勤務は、考えられないことである。世の移り変りに現われる姿というものは、誠におもしろいものである。

 奈良家は、今から四百五十年前の弘治年間に、大和国小泉村から、秋田県南秋田郡豊川村字上虻川部落に移り、居を定めたが、ここは帯状の細長い平地が僅に開け、両側は山となっていて、将来の発展性に乏しい地形である。更に附近を探し求めて、金足村小泉部落に移った。広く開けた平地と、水枯れに不安のない小泉潟に恵まれている。ここに腰をすえて開墾に従事し、巨大地主の基礎が築かれた。現在の家屋は二百十年ほど前の宝暦年間に建てたのであるが、当時すでに百七十町歩の田地を所有していたというから、おどろくべきことである。
 その後、年と共に富を重ね、田地五百町歩、山林壱千町歩、宅地約二千坪、両中門造りの百五十六坪の住宅、倉庫七つその三つは米倉、一つは味噌類の倉庫、残る三つは宝物の倉庫である。代々書画骨董を愛したが、昭和三十六年八月十五日、八十三才で亡くなられた磐松氏は政界に一切の念を絶って、美術品を集めたのである。国宝級のもの二十点、帝国博物館でこの種の陳列会がある毎に、奈良氏の秘蔵品が借りられるのである。
 奈艮家には、床の間が十数個あって、大体三日毎に掛替えするのであるが、人手を一切煩わさず、八十の老翁が処理していたのである。磐松氏が絵が好きになったのは、父茂氏の影響を強く受けている。茂氏の代に、多くの書画を集め、渡辺崋山の絵が欲しい。と生前云われていたが、手に入らなかった。死後入手して霊前に供えた。また穂庵の門人三森山静が奈良家にしばしば出入してすすめていた関係上、穂庵作や広業をはじめ秋田出身書家並びに画家の絵を系統的に集め全部取揃えているのは、奈良氏のみである。秋田の画人を研究するものには、貴重なる資料である。

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 奈良氏は単なる愛好者、蒐集者ではない。真偽については、非常に高い眼識を持っていた。日本画に関する限り、今から二百五十年間の絵画についての鑑定は何人にも負けないつもりである。と自己を語ることに慎み深い奈良氏にこの言あり、余程の自信を持っていたようである。各種展覧会毎に上京して、丹念に見廻りおどろくべき記憶力を持っていた。その研究は、浅鉢(さはち)のように浅いものではなく、広くて深かった。文を能くし、非売品であるが「松雪鑑賞」と題して画集を出版している。「松雪」は奈良氏の雅号である。出版するに至った動機とその弁に題して松雪鑑賞と云うも、其過半は先考の遺愛なり。先考晩年書画を好み、瞑目の前日、尚ほ書幅を披きて、其趣を楽しめり。余の嗜好を継ぐか如き、殆ど追慕の一端のみ。豈自ら書画を知るものならんや。今や冊子成る。謹みて先考の霊前に捧ぐ。而も復膝を拊ちて歓笑くくたるを聞くべからず。黯然として徒に悲愁を新にするのみ。

 この画集は、亡父茂氏が集めたものと松雪翁が集めたものから第一集を大正五年五月二十四日に出版して、一点毎に説明を加えている。第二集は大正六年二月一日、第三集は大正十一年一月三十日に出している。一冊の画集に十点乃至十数点をおさめている。書画の排次は、必ずしも時代に関せず、編者の適意によるが、その出所と書画から受ける感想を書いている。
 奈良家の所蔵品は、全国的にも逸品揃いと云われている。これが続けて出版されたら、この道の研究者を益するところ多いと思うが、中絶しているのは惜しいことである。松雪翁に対して、これまでの研究を一冊にまとめてはどうだ、と強くすすめるものあり、稍々意が動いたが、一字一句も苟もせざる名文的用心が反って禍いして、公表せざる研究を身につけたまま、この世を旅立って了った。石橋を叩いて、尚溝の深さをはからなければ、渡らない用心深いものは、却って彼岸に達することが出来ない類である。

 松雪翁は絵を愛し、集めたが、自ら絵を描く真似事はしなかった。書は絵同様愛し、蒐集に努め、自らもまた書いた。小学校時代から群を抜いていた。長ずるに従い、益々励み、師を求めて習わないが、名ある日本並びに支那の大家の書は悉くというほど見ている。そして蔵座敷(くらざしき)と、家に書をかく部屋を設け、村の村長時代にも、秋田銀行の頭取時代にも、帰宅してから必ず書き続け一日とうして怠ることはなかった。この部屋の掃除、整理は人手に任せず、自らこれに当った。書いたものは、一切外部に出すことはなく、人に語らず、誇らずにいるのであるから、身辺のもの以外の世間では書をかくことも知らず、書いたものも見ることはなかったが、秋田魁新報主催の書道展に、参考品としてならべたとき、中央から見えた審査員がまずおどろいて、出品入賞者たちに対して、君たちが、この書の本当の善(よ)さがわかるにはもっともっと書道に励めば、わかるようになる、と云われた。このことが伝えられて、松雪翁に書を所望するものが急に多くなったが、余程の自信作でなければ人にはくれなかった。けれど、七十を越してから、自信作が書けたと見えて、七十才以前にいくら願ってもくれなかったのが、七十才以後は約束すれば、十日か半ヵ月以後には、大概貰えるのであった。

 昭和三十七年八月二十四日から同二十九日まで六日間、木内三階ホールにおいて、松雪翁遺作展が開かれたが、七十才以上になってからのものに、すぐれた作品が見受けられた。秋田書道展に毎年入選の一人が、松雪翁に自分の書の批評を求めたら、「君のかげに人がいてね」と云われた。先人の模写をして、自分のものを未だ書けない。という誠に手きびしい評である。書に名のあるものの書風は悉く見ているので、他人の模写かどうかは、一見してわかるのであった。

 昭和三十三年十一月三日の文化の日に文化功労者として文化章を与えることになったとき、最早名利に超越した心境にある松雪翁が、果して喜んで受けるかどうか。ということよりも、授賞規程には功績顕著なるものと云うことになっているが、指摘すべき功ありや。と一部委員間に問題となったが、唐の大宗は聖人無功、至人無名と云われた。聖人には官衙的に云う指摘すべき功はないものである。また至人(達人)には凡眼に映るようなこれぞという名はないのである。松雪翁には指摘すベき顕著なる名誉も功績もないかも知れないが、文化的高度においては、これまでの授賞者にくらべてはるかに上にあるということになって、その旨を伝えたら「おれに文化章か」と苦笑されたが、強いて拒みもしなかった。

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 秋田市文化章授賞者に、松雪翁を加え得たことは、当然ではあるが、受賞内容を豊かにしたものである。
 秋田市に美術館が欲しい。という声は市民間に長い間あげられていた。機熟し帝国石油会社から寄附された資金に、市が追加して百坪の美術館を千秋公園の一郭に建てた。その開館式は昭和三十三年六月十八日挙げられた。主として奈良氏所蔵の蘭画三十余点をならべた。蘭画は江戸の人司馬江漢が鼻祖であると一般に信じられていた。江漢自身も「奥羽の人愚直にして洋画を知らず」と春波桜筆記に書いて鼻祖を以て任じていたが、この道の研究者によって、秋田の小田野直武、佐竹曙山が、江漢より十年も早く、日本ではじめて洋風をとり入れた絵を描いていることがわかった。

 今から百九十年も前に、文化の中心たる江戸をとび越えて、長崎から北辺の秋田の地に洋画の花が咲いたということは単に絵画史上において驚異的であるばかりでなく、絵そのものは近代一流画家に遜色なき作品的価値が高いからである。
 斯うした秘蔵品を三十余点も一堂にならべて、見る機会はなかったので、県内外から集った人々の目をひいたことは勿論であるが、引続いて月余に亘って一般に公開した。私が市長時代に、美術館を建てるには建てたが、一点の作品をも持たない美術館の運営を今後どうするか。ということが、心あるものから憂慮された点であったが、松雪翁の深い諒解と、奈良環之助氏が市会議員を辞任して、美 術館長を引受けてくれたことによって運営はうまく行くものと考えたからである。松雪翁は、秋田市が不燃焼の美術館を持てば、自分の所蔵品は貸してもいい。と云われたからである。一回二、三十点を半カ月間並べても、松雪翁所蔵品のみで、一、二年は不自由ないと思った。これを繰り返しても、見る人はかわり、また見る人は同じであっても、すぐれた作品は何べん見ても喜ばれるのである。

 奈良氏はこの約束を守ってくれて、あの老体を毎日のように美術館に、足を運んでいた。殊に掛替毎に自ら指示していた。松雪翁自身には、美術館の建設によって、益するところはないが、その建設を非常に喜んでくれた。松雪翁の遺志によるものと思うが、奈良家継承者恭三郎氏から秋田美術館に対して、六十余点を寄贈された。その六十余点は、悉く秋田県出身者の作品のみで、その中には、国の重要美術に指定されているものもある。予算的に甚だ恵まれない美術館が、奈良家の寄贈によって、はじめて自分のものを持つことができて、今後他府県美術館から申込みを受けても、融通し得るし、他から借り得る巾が、今までよりも広くなったのである。

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 松雪翁今は亡し。奈良家の富を以て父子二代に亘って集めた書画が、私有のままに長くおくことは、今後何代かの後において散逸せぬとも限らぬ。平野コレクション、奈良コレクションは、共に秋田の誇りであり、宝である。秋田の金持中には、誇るに足るべきものを持っているものも、いないではないが、全国的に名の知れ亘っているのは、平野氏であり、奈良氏である。秋田に足を入れるものは、これを見たいと所望するもの多いが、必ずしも見られるとは限らない。これをいつまでも、何人も容易に見られるような組織がつくられるならば、県市民の心を豊かにし秋田の文化向上にどれほど役立つか知れない。
 昨年物故された大館出身の木村泰治氏が、台北の商工会議所会頭時代に集めた陶器は、珍重すべきものが多かった。木村氏は大館は自分の生れた地であるから、大館が不燃焼の保存館を建ててくれるならば、そこに預けておいてもいい。と申出たが、耳をかして貰えなかったという。已むを得ず、所持品の半分ほどを売って、福島県下の、山中に熱湯湧く一帯を買って、そこから管を引いて、丘温泉をきりひらいた。周囲を整備し、道路をつくるには、尚多額の資金を要するので残る半分を売ることにした。このことを時の香坂知事が耳にして、福島県が保存館を建てて上げるから、これ以上売らずに、福島県にとどめておいて下さい。と保存館を建て、そこに通ずる道路を県費を以てつくり、今は立派な温泉街となっている。私はこの話を直接木村氏からきかされて、懐中にころげ込んだ宝物を、土地の人たちが投げ捨てて了ったような淋しさを感じた。そして香坂知事の明ある決断に感心した。

 隣県山形では、県市と山形新聞社共催で約一億円の予算で、美術館を建設することになった。酒田の本間美術館は、本間家の邸宅を美術館としているが、木造であるため火災の不安がある。わが奈良家の邸宅も少し改造を加えると、本間美術館のような美術館をつくり得ないことはなかろうが、奈良家は、今から二百十年前の宝暦年間に、農業を営むために建築されたもので、現在県にのこっている民家としては珍しいもので、文化財指定の価値を持っている。一時は作男、女中等十名、牛馬数頭、田地十町歩の大面積を自作した時代があったという。そのときの土間の広さ、作男たちの寝起きした二階などそのままのこっている。昭和十年五月世界的建築家ブルーノ・タウト氏が来県されて、奈良家を見て、実に珍しい民家である。このまま保存すべきだ。と云っている。だから、奈良家はこれに加工などせず家そのものを保護し、博物館として、土間及各部屋に応じたものを陳列し、書画類の美術品は不燃焼の近代的建築として所謂奈良美術館、奈良博物館として現位置に建て、秋田市旧市内に平野美術館の建設を見るならば、秋田市は国体によって整備した体育施設と併行した文化施設を持つことが出米るのである。平野氏、奈良氏の心境並県市の心構えがどうであるのか、私には一向わからず、私は勝手に私の夢を描いて、奈良磐松の巻につけ加えて、この稿の結びとするのである。(次回は伊藤永之介)