鹿角市三ツ矢沢地域は南部藩と久保田藩(秋田藩)が接していたところで、慶長10年(1605年)から延宝4年(1678年)までの70年余りに渡り藩境を巡って小競り合いが絶えませんでした。ついに江戸幕府によって線引きが行われ「スハリ谷」に藩境を定め、4つの塚が建てられました。直径4m、高さ3mの土盛が築かれ、塚の中には糠90リットル、炭30㎏が埋め込まれたと言われています。現在、2つの塚が山中に現存しています。
平成25(2013)年6月掲載
こちらの記事もおすすめです
絶壁の「種岩」
鹿角市三ツ矢沢地域の下新田集落の外れに、大きな崖とも一枚岩とも見える大きな黒々とした岩場があります。地元の人が季節折々の桜やもみじを楽しんでいる場所で「種岩」と呼ばれています。山肌をくまなく樹木が覆う谷あいで、...
歴史
ビューポイント
三ツ矢沢地域の取組
鹿角市三ツ矢沢(みつやざわ)地域の名前は「三つの谷沢」という説があります。三ツ矢沢の山向こうは尾去沢鉱山。鉱山の発達と共に集落が発展しました。鉱山で働く人と、その人々に山で作った炭や山の幸を売って生計を立てる人たち...
地域活動
地域団体
尾去沢鉱山
鹿角市三ツ矢沢地域と切っても切れない関係にあるのが、地域の東の山向こうにある「尾去沢鉱山」です。三ツ矢沢は尾去沢鉱山の「山かげ」と呼ばれ、鉱山で働く人々を支えてきました。 尾去沢鉱山は金・銅を主に産出し、江戸...
自然・施設
体験施設