昭和40年代は年間の水揚げが1万5千トン前後もあり、県内の漁港おは次から次と水揚げされるで埋めつくされた。
「おれだぢ子どものころだば毎日 ![]() 「んだ。木箱にもりっと入ったのが1箱200円、300円だったものな。弁当のおかずは ![]() 「おらほは1箱50円だった。 ![]() |
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今や高級魚となった![]() ![]() 大漁が続いていた時代、秋田の冬の食卓はまさに ![]() ![]() |
これは沿岸部だけのことではない。気温の低いこの時期は、県内全域が冷蔵庫の中のような状態。馬や川船による遠方への運搬でも鮮度の下がる心配はなかった。このため、ふだんは鮮魚に恵まれない山間部、山奥までもハタハタは運ばれた。もし真夏に水揚げされていたら、こうはいくまい。
どこの家でも1回に2箱も3箱も買い求め、塩焼きやショッツル貝焼きなどで旬の味を楽しみ、残りは「塩漬け」「ぬか漬け」「こうじ漬け」などさまざまな方法で保存し、冬の間の貴重なたんぱく源とした。 このように秋田県民に親しまれてきた ![]() 「このままでは県民魚である秋田産の ![]() この自主禁漁期間中、男鹿の漁師さんを取材したことがある。 |